The Weeknd こと Abel Tesfaye の4枚目のスタジオ・アルバム『After Hours』は、2020年3月20日にリリースされた。プロデュースは Tesfaye 自身を中心に、DaHeala、Illangelo、Metro Boomin、Max Martin、Oscar Holter が主要曲を担当した。Billboard 200 で初登場1位、Metacritic で80点。
80年代のシンセ・ポップへの偏愛を隠さないサウンドでありながら、漂うのは2020年代特有の閉塞感だ。ネオンに照らされた快楽と自堕落、そして底なしの孤独が渦巻く——その「終わらない夜」の音楽が、パンデミックが始まる直前の世界に届いた。その一致が、このアルバムを時代の記録にした。
後に Dawn FM(2022年)、Hurry Up Tomorrow(2025年)へと続く三部作の第一章となったが、この一枚で完結している美しさが特別だ。
制作背景
アルバムの制作コンセプトは、最初からビジュアルと一体だった。赤いジャケット、ラスベガスの夜、折れた鼻——「Heartless」の MV から「Blinding Lights」「After Hours」「In Your Eyes」「Until I Bleed Out」まで、すべての MV は「一夜の出来事」として繋がっている。
映画的な引用が随所に仕込まれている。マーティン・スコセッシの1985年の映画『アフター・アワーズ』、「チャイナタウン」の折れた鼻、「ジェイコブズ・ラダー」の地下鉄——Tesfaye は Variety のインタビューでこう語っている。「『After Hours』のビデオでは映画オタクぶりを全開にした。一晩の狂気という設定で、スコセッシの映画が明らかなインスピレーションだった」と。
音楽性
Tesfaye の音楽的ルーツはマイケル・ジャクソン、プリンス。初期の Trilogy(2012年)では Portishead と Massive Attack のトリップ・ホップが色濃く、あの霧がかかった質感はそこから来ている。Beauty Behind the Madness(2015年)で Max Martin との共作によりメインストリームに踏み出し、Starboy での蛍光色のポップ路線を経て、今作では80年代シンセ・ポップ——Depeche Mode、A-ha——への傾倒が最も露骨に出た。
このアルバムの80年代参照は懐古趣味ではない。Depeche Mode や A-ha の質感が、今の孤独感の容れ物として機能している。過去作との違いはそこだ。
「Scared to Live」には Elton John の「Your Song」のサンプルが使われており、あの曲の純朴な愛の感触と、Tesfaye の疲弊したロマンスの語りが重なる落差がじわじわと効く。「Repeat After Me (Interlude)」では Oneohtrix Point Never が参加し、アルバムで最も夢幻的なテクスチャーを作り出している。
血まみれのジャケットを着て虚ろな目で笑う Tesfaye の姿は、SNS 上で見せる「加工された幸せ」と、その裏側にある精神的な疲弊のメタファーだ。Tesfaye はこう語っている。「Kubrick の『アイズ ワイド シャット』から飛び出てきたような観客の前で、『これがお前たちの求めるスーパースターか?』と問いかけたかった」と。
楽曲解説
Blinding Lights
Billboard Hot 100 史上最長チャートイン記録(57週)を持ち、Spotify で史上初めて40億ストリームを超えた曲だ。40カ国以上でチャート1位を獲得した。
Tesfaye は「20分で書いた」と語っている。Oscar Holter との作業を出発点に、Max Martin が仕上げた。アルバムの最後に完成した曲で、完成するまで Tesfaye はアルバムを出せる自信が持てなかったという。「これほど速くメロディが書けたことはない」と彼は振り返っている。
この曲の骨格はシンプルだ。Fm – Cm – Eb – Bb の4コードループが、最初から最後まで一切変わらない。ポップなコーラスの下に冷たいマイナーのループが走る——あのコーラスが爽快なのに聴き終わると胸に何か重いものが残る感触は、そこから来ている。変わるのはアレンジの密度だけ——イントロの単音シンセから、コーラスでのゲート・ドラムとリード・シンセの爆発まで、各セクションで少しずつ要素が積み上がっていく。コーラスに向かうプレ・コーラスの小さなメロディの上昇——それが「もうすぐ爆発する」という予感を作っている。
歌詞はラスベガスに向けて夜中に車を走らせる場面を描く。「I’m running out of time / ‘Cause I can see the sun light up the sky」——「時間が足りない。もう空が明るくなり始めてる」。酔った状態で誰かに会いに行く切迫感——その「夜が終わることへの恐怖」がアルバム全体のテーマと重なる。
A-ha の「Take On Me」と同じアルペジオの走り方で始まり、ゲート・ドラムは80年代のサウンドをそのまま引用している。それでも懐古趣味に聴こえないのは、その参照が2020年の孤独の質感に完全に溶け込んでいるからだ。「1986年のジャズ・エクササイズのテープから引っ張り出してきたかのようだが、シンセには不吉な冷たさがある」——この言葉が最もよく言い当てている。
Tesfaye はドラム&ベース的なリズムについて「人々は慣れないものを聴きたがらない」と不安を感じていたと語っている。しかし Prince の「When Doves Cry」のように、誰も聴いたことがない音が時代の曲になることがある——その確信が最終的に彼を動かした。
Scared to Live
Elton John の「Your Song」のサンプルを骨格に、Oneohtrix Point Never のシンセが夢と現実の境を溶かす。Tesfaye が SNL で「Blinding Lights」と並べて初披露した曲だ。
「Your Song」の純朴な愛の感触と、Tesfaye の疲弊した告白が重なる。「あなたを愛したいが、怖い」——その感情がこの曲では最も生々しい。アルバムの中で最も脆い曲で、だからこそここが一番刺さる。
After Hours
タイトル曲にしてアルバムの感情的な頂点。6分超の大曲で、Tesfaye が「これほど野心的なことをやっていいのか不安だった」と語った曲だ。DaHeala との共作で、ドラム&ベースのリズムが終盤に突然現れる——それまでの重厚なシンセ・バラードの骨格が崩れる瞬間に、アルバム全体の「一夜の果て」が凝縮されている。
「Found you lyin’ on the floor」——「あなたが床に倒れているのを見つけた」。その一行の後の沈黙が、何より雄弁だ。
まとめ
『After Hours』は Tesfaye のキャリアで最も統一されたアルバムだ。80年代シンセ・ポップの美学、映画的なビジュアル・コンセプト、孤独と自己嫌悪のテーマ——それらが「一夜の物語」という枠の中で完全に一致している。
聴き終わった後、朝日が昇るのが少し怖くなるような感触が残る。そういうアルバムだ。

