ジェネシス(Genesis)おすすめ名盤『月影の騎士(Selling England By The Pound)』レビュー|英国らしさへの意地が生んだログレッシブ・ロック黄金期の到達点

ジェネシス(Genesis)おすすめ名盤『月影の騎士(Selling England By The Pound)』レビュー|英国らしさへの意地が生んだログレッシブ・ロック黄金期の到達点 Progressive Rock

Genesis の『Selling England by the Pound』は、1973年10月にリリースされた5枚目のスタジオ・アルバムだ。UK チャートでは最高3位を記録し、翌年2月にシングルカットされた「I Know What I Like (In Your Wardrobe)」がバンド初のトップ30ヒットとなった。

前作が「Supper’s Ready」という23分のモンスター・ピースで勝負した作品だとするなら、本作はその反動か、あるいは自然な成熟か——より多彩な楽曲が、より精密なアンサンブルで詰め込まれた一枚だ。プログレッシブ・ロックというジャンルの到達点のひとつ、と私は思っている。

メンバー紹介

Peter Gabriel(ボーカル、フルート、オーボエ、パーカッション)

Genesis の声であり物語の語り手。Gabriel のボーカルの最大の特徴は、単一の曲の中で複数の人物を演じわける能力にある。

「The Battle of Epping Forest」では複数のコックニー訛りのキャラクターを次々と切り替えながら歌い、まるで一人芝居のように曲を展開させた。「Dancing with the Moonlit Knight」のアカペラ冒頭も象徴的で、伴奏なしに音程を保ちながらバンドのアンサンブルへ自然に接続する。その精度は、純粋に技術的に難しい。

Tony Banks(キーボード、12弦ギター)

本作最大の功績者と言っていい。「Firth of Fifth」の冒頭ピアノ・ソロは、2/4拍子を基調としながら11/16や13/16へと自在に変拍子を重ねていく即興的な構造を持っている。クラシック的な規律とジャズ的な直感が奇妙に同居している。

また本作ではメロトロンを新しいモデルに更新し、コーラス・サウンドを駆使して楽曲の空間を大きく広げた。

Steve Hackett(エレクトリック・ギター、ナイロン・ギター)

本作は後に Hackett が Genesis の作品の中で「最も好きな一枚」と語ったアルバムでもある。ただし、制作当時は最初の結婚の破綻という個人的な苦境の中にいた。楽曲全体を書き下ろす余裕がなく、代わりにギター・リフのアイデアをバンドに持ち込む形で参加したと本人は語っている。

「Firth of Fifth」のソロはその集大成だ。メロディを軸に据えながらサステインとビブラートを組み合わせた、歌うようなフレージング。後に Eddie Van Halen や Trey Anastasio らに影響を与えたとされる。

Mike Rutherford(ベース、12弦ギター、エレクトリック・シタール)

ベーシストでありながら12弦ギターとシタールも操る、アルバム内の音色の幅を最も広げた人物だ。

「Dancing with the Moonlit Knight」のアウトロで鳴り響く12弦ギターのメロディは、Rutherford が書いた唯一の作曲パートだ。即興による他のパートとは一線を画している。Hackett が「三本の12弦ギターが重なるとハープシコードのような音になった」と語った音像も、Rutherford の参加なしには成立しなかった。

Phil Collins(ドラム、パーカッション、ボーカル)

本作の制作前、Collins はジャズ・フュージョン・グループ Mahavishnu Orchestra を集中的に聴き込んでいた。その影響がアルバム全体に及んでいる——変拍子の曲を自然なグルーヴとして成立させているのは彼のドラミングの力に他ならない。

「More Fool Me」ではリード・ボーカルも担当しており、後のソロ・キャリアを予感させる柔らかい声の質感がすでにここに宿っている。

制作背景

1973年5月、Genesis は Foxtrot ツアーの最終日程を終えた。北米初の本格ツアーは手応えのあるものだったが、プレスからの評価は依然として「ELP や Jethro Tull の後追い」という色眼鏡がかかっていた。

レーベルは商業的な勢いを維持するために新作を急ぎ、バンドに2〜3ヶ月という期限を設定した。Rutherford は後にこれを「死刑宣告みたいなものだった」と語っている。

楽曲の多くはロンドンのウナ・ビリングス・ダンス教室の地下スペースで書かれた。Gabriel はプレスに「Genesis がアメリカ市場に媚びている」という印象を持たれていることを意識し、意図的に英国的なテーマで歌詞を書いた。

アルバムタイトル「Selling England by the Pound」は当時の英労働党のスローガンから借りたもので、アメリカ文化の流入による英国らしさの喪失、消費社会化への批判がアルバム全体の通奏低音として流れている。Gabriel は全歌詞をわずか2日間で書き上げたと後に明かしている。

「Firth of Fifth」の誕生には面白い逸話がある。Banks が別の曲のために書いていた3つの断片を、他のメンバーが「ひとつの曲に押し込んでしまえ」と強引にまとめたのが原型だ。Banks 自身は歌詞の出来を「自分が関わった中で最も酷い」と酷評しているが、楽曲としての評価とのギャップが何ともいえない。

音楽性

本作の構成上の特徴は複数セクション構造にある。「Dancing with the Moonlit Knight」「Firth of Fifth」「The Battle of Epping Forest」「The Cinema Show」はいずれも、まったく異なる複数のパートが縫い合わされてひとつの曲として成立している。

アルバム全体にも統一感があり、オープニング「Dancing with the Moonlit Knight」のメロディが「The Cinema Show」を経て「Aisle of Plenty」で回帰するという構造が、アルバムを一個の劇作品として機能させている。

転調は本作の重要な武器だ。「The Cinema Show」の後半、Banks がキーボード・ソロをとるセクションは Rutherford と Collins が7/8拍子で支えている。前半の12弦ギターを軸にした牧歌的な雰囲気から、鋭くモード的な領域へと踏み込む。その切り替えは突然ではなく、ほとんど自然な呼吸として聴こえる。

Gabriel のボーカル・スタイルについては、その「語り口」の多様性が際立つ。「The Battle of Epping Forest」では各ギャングのボス役を別の声色で演じながら場面を転換させていく。一方の「Dancing with the Moonlit Knight」冒頭のアカペラは、スコットランドのプレインソング(単声聖歌)の影響を受けていると本人が語っている。英国音楽の歴史的な奥行きを、ほんの数小節で喚起してみせる。

楽曲解説

Dancing with the Moonlit Knight

「Can you tell me where my country lies?」——静寂の中に Gabriel の声だけが浮かぶ。アカペラの一節が終わると、すぐにバンドが雪崩れ込んでくる。

スコットランドのプレインソングを参照したというこの出だしは、アルバム全体のテーマである「英国らしさの喪失」を宣言する一打でもある。この曲はもともと「The Cinema Show」と連結して20分を超える組曲にする案があったが、前作「Supper’s Ready」との類似を嫌ったバンドが断念した。

Banks が新型メロトロンで出すコーラス・サウンド、Hackett の揺れるギター・フィギュア、そして Rutherford の12弦ギターが丁寧に組み合わさって、英国の田園風景を描く音の絵画が完成する。アウトロのみ Rutherford が作曲した12弦ギターのメロディが流れ、感情的な着地点を静かに告げる。

I Know What I Like (In Your Wardrobe)

バンド初のトップ30ヒット曲。舞台裏にいたステージ・ワーカー Jacob Finster の実話をもとに書かれたとされる楽曲で、定職につかず庭師や芝刈り人として暮らす男の「分をわきまえた幸福」を描いた。

「I know what I like, and I like what I know」——このリフレインは、滑稽でありながら不思議と刺さる。Hackett がライブでリフとしてかけていたギターのループを土台に、リハーサル中に Collins と Rutherford が肉付けした。

Collins のドラミングが曲にファンク的な推進力を与えていて、他の大曲群とは明らかに手触りが違う。アルバムの中で唯一息が抜ける瞬間として機能している。

Firth of Fifth

アルバムのサウンド的な頂点。Banks が別々に書いていた3つの断片を他のメンバーが強引にひとつの曲に仕立て上げた、という成立過程がまず面白い。

冒頭のピアノ・ソロは2/4拍子を基調にしながら11/16や13/16へと自在にシフトしていく構造を持っており、それが書き直した即興に聴こえるのは Banks の直感が理論を超えているからだろう。

中間部でフルートとオーボエが絡み、Collins のドラムが押し上げた先に Hackett のギター・ソロが来る。メロディを崩さず、しかし感情だけを増幅させるように弾くそのソロは、8分間の曲のすべてが準備だったと思わせる。

The Battle of Epping Forest

ロンドン東部の森を舞台にしたギャング同士の縄張り争い。実際にエピング・フォレストは英国のギャングが抗争の場として使っていたことが知られており、Gabriel はその史実にトールキン的な誇張と言語遊戯を混ぜて歌詞を書いた。

曲の構造はほとんど喜劇的な連作で、各ギャングのボスを別の声色で演じながら場面を転換させていく。バンド内での評価は複雑で、多すぎる歌詞が音楽の動きと合わなくなる部分があると当人たちは認めており、ツアー後はライブから外されている。

それでも、この曲が持つ異様なエネルギーは他に代えがきかない。

The Cinema Show / Aisle of Plenty

T.S. エリオットの詩を下敷きに、映画館でのデートに向かう Romeo と Juliet の心理を描く。歌詞の中のコーラスはギリシャ神話のテイレシアス(男と女の両方を経験した予言者)を参照しており、その知的な重層構造が Genesis らしい。

前半は12弦ギターとアコースティックな和声中心で静謐な雰囲気が続くが、Banks がキーボードに持ち替えると空間がまるで変わる。Rutherford と Collins が7/8拍子のリズムを敷き、その上に Banks が4分半以上にわたるキーボード・ソロを展開する。後年 Genesis のライブ・メドレーに組み込まれ続けたのもうなずける完成度だ。

「Aisle of Plenty」は「Dancing with the Moonlit Knight」のメロディと英国スーパーマーケットのブランド名をかけたダジャレ歌詞でアルバムを締める。英国の喪失を問いかけた冒頭に、その喪失の具体的な風景で答える。静かに、そしてほんの少し皮肉に終わっていく。

まとめ

『Selling England by the Pound』が今も特別な作品として語られるのは、変拍子や長尺の組曲といった構造的な複雑さの「すごさ」ではなく、その複雑さが感情の経路として機能しているからだと思う。

Gabriel の声が場面を切り替え、Banks のキーボードが空間を染め、Hackett のギターが感情を言語化する——それぞれの技術が「曲を難しくするため」ではなく「曲を感じさせるため」に動いている。

プレスから「アメリカに媚びている」と言われた翌年に、徹底的に英国的なアルバムを作った。その意地と照れが混ざったような作品の手触りも、私は好きだ。

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