Manic Street Preachers の『The Holy Bible』は、1994年にリリースされた3枚目のスタジオ・アルバムだ。メンバーは James Dean Bradfield(ボーカル・ギター)、Nicky Wire(ベース)、Sean Moore(ドラム)、Richey Edwards(リズムギター・作詞)の4人。プロデュースは Steve Brown が担当した。
リリースの約半年後、主要歌詞担当の Richey Edwards が失踪した。それ以降、このアルバムはどうしてもその事実と切り離して語ることが難しくなっている。
でも、Edwards 失踪の「予兆」としてだけ聴かれるのは、このアルバムに対してあまりに不誠実だと思っている。政治的暴力、ホロコースト、売春、摂食障害——Edwards が書いた歌詞は、自己の内部と世界の外部を同時に解剖しようとした、一個の知的な企てだ。それが1994年のブリットポップの喧騒の中にリリースされた。
制作背景
バンドは前作『Gold Against the Soul』(1993年)に強い不満を抱えていた。Wire は「ポスト『Gold Against the Soul』の空虚感があった。思ったほど大きくなれなかったという現実に、埋めなければいけない穴があった」と語っている。Bradfield も「ロックバンドとして予測可能な轍にはまり始めていた」と振り返っている。
その反動として生まれたのが「カーディフに帰る」という決断だ。バンドが自ら掲げたミッションステートメントは「カーディフの歓楽街で録音すること。大物プロデューサーを使わないこと。毎晩実家に帰って眠ること」——レコード会社はバハマでの録音を望んでいたが、バンドはそれを断った。
アルバムが完成したのは、Oasis のデビュー・アルバム『Definitely Maybe』と同じ日だった。「タクシーの中で Richey と一緒に『Supersonic』をラジオで聴いた。少し気が滅入った」と Bradfield は語っている。Wire は「ブリットポップが大騒ぎになればなるほど、自分たちは弱くなっていく感じがした」とも。
音楽性
前作『Gold Against the Soul』との落差は鮮烈だ。前作はバンド自身が「明るく大きく聴かせようとした失敗作」と総括しており、グラム・ロック的な派手さとラジオ向けのポップなサビが特徴だった。それに対し『The Holy Bible』は、音が小さく、乾いていて、余白に空気がない。
Joy Division、Wire、Gang of Four といったポスト・パンクの影響を Bradfield が再吸収し、Edwards の歌詞の密度に見合う攻撃性を音に与えている。「明るく大きく」の対極にある音を、意図して作った。
後続作との比較も興味深い。Edwards の失踪後、残った3人はまず『Everything Must Go』(1996年)で「前進」を選んだ。「A Design for Life」のような賛歌的なアンセムは世界的な成功を収めたが、あの作品の明るさは『The Holy Bible』の暗さがあって初めて意味を持つ。2009年にリリースされた Edwards の未発表歌詞を使った『Journal for Plague Lovers』は、『The Holy Bible』との精神的な連続性を最も意識した作品だ。
楽曲解説
Yes
冒頭の一行は「for sale, dumb cunt, same dumb questions」。売春をテーマにしたこの曲でアルバムは始まる。甘さも導入もない。Edwards の歌詞は商品として扱われる身体と、それを消費する社会構造を同時に告発している。
Bradfield のボーカルがこれほど神経質に、しかし正確に言葉を音に乗せているのは、歌詞の密度に対する一種の誠実さだと感じる。最初の数秒で、このアルバムが何をしようとしているかが完全に伝わってくる。
Of Walking Abortion
アルバム最大の爆発点。Hubert Selby Jr. のインタビュー音声から始まり、Bradfield の不協和音のギターが断末魔のように鳴り響く。曲の終わりに叩きつけられる「WHO’S RESPONSIBLE / YOU FUCKING ARE」という一行が、このアルバムの怒りの核心をそのまま言語化している。
タイトルは Valerie Solanas の SCUM マニフェストから引用。過激なフェミニスト思想を参照しながら、Edwards は人間の愚かさと暴力性をより広く指し示そうとしている。
4st 7lb
アルバムで最初に録音された曲であり、最も個人的な曲でもある。「4st 7lb(約29kg)」とは、成人が到達すると死を免れないとされる摂食障害の体重の目安。Edwards が自身の苦しみを少女の視点に仮託して書いたこの曲は、歌詞の一行一行が痛烈に具体的だ。
「I want to walk in the snow and not leave a footprint」——消えてしまいたいという願望を、ここまで美しく書けてしまうことの残酷さ。曲の後半、攻撃性が静まって半ワルツのような旋律に転じる瞬間が、かえって最も暗い。
Faster
George Orwell の映画『1984』のダイアローグで始まるシングル曲。このアルバムで Top of the Pops に出演した際、Bradfield はバラクラバ(目出し帽)を被り軍服で演奏した。25,000件を超える苦情が BBC に寄せられた。
「I know I believe in nothing but it is my nothing」——この一行のために全曲存在しているようにも聴こえる。ニヒリズムを高らかに宣言しながら、それが「私のニヒリズム」であることに奇妙な誇りがある。
Die in the Summertime
Wire は「Richey と Neil の精神状態について書かれた曲だ」と語っているが、Edwards 本人は「幼少期の記憶の中で死を迎えたいと願う老人の歌だ」と説明している。どちらの解釈が正しいかは、聴く人が決めることだと思う。
このアルバムで最も静かで、最も残酷な曲かもしれない。翌朝しばらく何も聴けなくなるような曲だ。
まとめ
『The Holy Bible』は、リリース当初 UK チャートで最高6位を記録しながら、本国以外ではほとんど売れなかったアルバムだ。北米では正式リリースすらされなかった。
それでも今、このアルバムは「90年代最重要英国ロック作品のひとつ」として語り継がれている。Edwards の失踪がなければ、もっと別の文脈で聴かれていたかもしれない。でも音そのものは、そんな文脈に収まりきらない強度を持っている。
