Stevie Wonder の『Songs in the Key of Life』は、1976年にリリースされた18枚目のスタジオアルバムだ。二枚組 LP 全21曲+4曲入りボーナス EP、総収録時間は105分。
Billboard 200 に初登場1位、13週間連続1位を維持。グラミー賞でアルバム・オブ・ザ・イヤー、プロデューサー・オブ・ザ・イヤーを含む4部門を受賞。2020年の Rolling Stone「史上最高の500アルバム」では4位に選出されている。
Elton John はこう言っている。「世界中どこへ行くときも、このアルバムを持っていく。私にとって、これが史上最高のアルバムだ」と。Michael Jackson は「一番好きな Stevie Wonder のアルバム」と呼び、Kanye West は「Innervisions と Songs in the Key of Life と競いたい——音楽的に不遜に聴こえるかもしれないが、なぜそこを目指さないのか」と語った。
制作背景——ガーナへ行こうとした男が作ったアルバム
1975年末、Stevie Wonder は音楽業界を引退してガーナに移住し、障害を持つ子供たちのために働くことを真剣に検討していた。すでに告別コンサートの計画も進んでいた。
それを思いとどまらせたのが何だったのか Wonder は多くを語らないが、1975年8月5日、Motown と史上最大の録音契約(7年間・7アルバム・3700万ドル、完全な芸術的コントロール付き)を締結し、このアルバムの制作に集中することになった。
録音は1973年12月から1976年夏まで約2年半にわたり、200曲近くが録音された。最終的に選ばれたのが21曲プラスボーナス4曲だ。Wonder はほぼすべての楽器を自ら演奏し、全曲をプロデュース・作曲・編曲した。参加ミュージシャンのクレジットは130人以上にのぼる。
Paul Simon は前年の Grammy でアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞したとき、壇上でこう言った。「Stevie が今年アルバムをリリースしなかったことに感謝します」と。翌1977年、Stevie はこのアルバムでその賞を受賞した。Paul Simon のジョークは1年越しに正しかったことになる。
和声とリズムの構造——なぜ Stevie のコードはこんなにも「気持ちいい」のか
Stevie Wonder の和声的な語法を一言で表すなら、「ポップの構造にジャズの語彙を持ち込み、ゴスペルの感情で歌い上げる」ということになる。
まずコードの「厚さ」だ。一般的なポップソングが3和音を基本とするのに対し、Wonder は7度を加えた4和音を当然のように使う。さらにそこに9度、11度、13度というテンションノートを積み上げる。Dominant 9(sus4) コードを多用することで「解決を保留したまま前進する」独特の浮遊感を生む——これが「Wonder のコードはなぜか宙に浮いているような感じがする」という感覚の正体の一つだ。
次に「借用和音」の使い方。同じ主音を持つ別の調からコードを借りてくることで、明るいメジャーキーの曲の中に突然マイナーの翳りが落ちてくる瞬間がある——それが「なんとなく切ない」「胸が痛い」という感覚を作っている。
リズム面では、Wonder は「クロスリズム」と「シンコペーション」を自在に操る。「ずれているのに気持ちいい」という感覚を生む技法だ。また「ドリアンモード」の多用も Wonder の特徴で、「暗いのに明るい」「悲しいのに踊れる」という感覚を生む。「I Wish」がその典型だ。
楽曲解説
Love’s in Need of Love Today
Eb メジャーを基調に、アルバムの幕を開ける7分10秒。「今日、愛は愛を必要としている——急いで、急いで、急いで」という呼びかけが、広がるコーラスとともに積み重なっていく。
最初は一声だったボーカルがどんどん重なり、最後には何十声もの合唱になる——その「膨らみ方」が音楽の構造そのものだ。随所に差し込まれるテンションコードと転回形が、感情の起伏として体に届いてくる。それが Wonder の技術の核心だと思う。
Sir Duke
このアルバムで最も和声的に密度が高い曲の一つだ。B メジャーを基調に、ヴァースは I – VI – bVI – V という進行で動く。ここでの「bVI」——G メジャー——が「借用和音」の典型的な使い方で、本来 B メジャーのキー内では G# マイナーになるはずの場所に、G メジャー(半音下がったメジャーコード)が来る。その「外れ感」がかえって曲に陰影を与える。
プリコーラスはさらに大胆で、E9 – Eb9 – D9 – Db9 という9th コードが半音ずつ下降していく連鎖だ。理論的には「キーを外れている」のに、聴いた感じはスムーズで躍動的——Wonder がすべてのコードのトップノートを一つの音に固定することで、コードが動いても「メロディの糸」が切れないように設計しているからだ。
Ellington、Basie、Coltrane——これだけ複雑な和声の上に乗りながら、ただただ楽しい一曲として機能している。聴いていると体が動き出す。「楽しさ」と「複雑さ」が全く矛盾していないのが、この曲の凄さだ。
I Wish
「あのころに戻りたい——クラスで一番悪ガキだったあの頃に」。Eb ドリアンという特殊なモードで全編が構成された一曲だ。ヴァースのコード進行は Ebm7 と Ab7 のほぼ2コードで、その上を Nathan Watts のベースラインが縦横に動き回る。
Wonder はこのセッションに Eb マイナーの「左手ベースパート」をピアノで弾きながら現れた。Watts はそれを受け取り、「James Jamerson のグレースノートを加えて、自分のものにした」と語っている。
あのベースラインのファンキーさの正体は「ダウンビートを16分音符一個分早く先取りする」というリズム的な仕掛けにある。「4拍目の最後の16分音符」に音を置いて次の小節に「突っ込む」——この「抜き足差し足で前に転げ込む」感覚が、あの独特の推進力を生んでいる。さらにベースラインは3音のモチーフが4/4拍子の上で3拍子的なまとまりで動く——「3」と「4」が同時に鳴っているようなクロスリズム構造だ。
Wonder は1976年の Motown のピクニックの最中にこの曲を書いたと語っている。「子供の頃に戻りたいというシンプルな感情から来た」と。シンプルな感情が、ドリアンとクロスリズムによって「懐かしさ」と「後悔」と「喜び」が同居した複雑な感情になった。
Isn’t She Lovely
娘 Aisha Morris の誕生に際して書かれたこの曲は、冒頭から生後間もない Aisha の泣き声が収録されている。E メジャーを基調に、vi – II – V – I というジャズ由来の進行を8分音符3連符(シャッフル)のグルーヴに乗せた構造だ。
Wonder はシングルカットのためにこの曲を短くすることを Motown に断固として拒否した。6分以上のハーモニカソロを含む完全版以外はあり得ない、と。その頑固さが正しかったことは、この曲が50年近く経っても「子供が生まれたときに聴く曲」として聴き継がれていることが証明している。
If It’s Magic
ハープとボーカルだけの2分30秒。ハープを演奏したのはジャズハープ奏者 Dorothy Ashby——Wonder が「この曲にはピアノでもシンセでもなく、ハープしかない」と確信して指名した人物だ。
ハープとボーカルだけというのは、このアルバムの中では異様なほどの「引き算」だ。シンセもドラムもベースも何もない。Ashby のハープが弦をはじく音と、Wonder の声だけが空間に浮かんでいる。「愛が魔法なら、それはなぜ消えてしまうのか」——答えは出ないまま、静かに終わる。
As
「月が太陽を隠すまで、川が水を流すのをやめるまで——そういつまでも愛している」。Ab メジャーを基調とした7分47秒で、Herbie Hancock が Fender Rhodes を演奏していることでも知られる。
コーラスに入ると Ab メジャーから短3度上の C メジャーへ転調する。この転調のタイミングと「always」という言葉が重なる瞬間が、この曲で最も感情的に高まる瞬間だ。転調という和声的な「飛躍」が歌詞の「永遠」と同期する——Wonder の作曲の精度を最もわかりやすく示す瞬間の一つだと思う。
Nathan Watts はこのセッションをこう振り返っている。「私とStevie、Herbie、ドラマーのGreg Brown、ギタリストのDean Parksで、ただただグルーヴした。実は2回リズムのミスをしてしまって、直させてくれとStevieに頼んだんだが、彼は『ノー、そのフィールの方が好きだ』と言った」と。そのミスは今も録音の中に残っている。
Another Star
アルバムのクローザーに置かれた、ラテンとファンクとソウルが溶け合う8分弱の曲。George Benson がエレクトリックギターでゲスト参加している。
中盤の George Benson のギターとホーンセクションの掛け合いは、このアルバムで最も「セッションの熱気」がそのまま封じ込められた瞬間だと思う。「Another Star」で終わることで、21曲+ EP という膨大なアルバムが「続けて聴きたい」と思わせる円環構造を持つ。音楽の喜びをそのまま音にしたような幕引きだ。
まとめ
ジャズの和声、ゴスペルの感情、ファンクのグルーヴ、ソウルの歌心——が一枚のアルバムに凝縮されている。
そしてその「統合」は、机の上で設計されたのではなく、Motown のピクニックで Eb ドリアンを思いつき、午前3時にベーシストを呼び出し、Hit Factory で Herbie Hancock と「ただグルーヴした」という、現場の熱から生まれたもの。
難しい音楽理論の話を全部忘れて聴いても、ただただ気持ちいい。それがWonderが天才たる所以だ。