My Bloody Valentineの『Loveless』は、1991年にCreation Recordsからリリースされたシューゲイザーの代表作です。
気の遠くなるような歳月と、レーベルを破産寸前まで追い込むほどの制作費を投じて作り上げたこの音の地平線に身を委ねていると、現実世界の輪郭がぼやけていくような心地よい錯覚に陥ります。
初めて再生ボタンを押したとき、最初に思ったのは「掃除機の音みたい」。しかし、それだけではなかった。
地鳴りのような轟音と、その裏で溶け合う甘美なメロディ。この二つがどうしてこれほど自然に共存しているのか、すぐには理解できなかった。
なぜこのノイズはこれほどまでに優しく響くのか——その問いがこのアルバムを何度も引き返させます。
音楽性
このアルバムでは、シューゲイザーの極致とも言える、没入型の官能的な音の海がアルバム全体を覆っています。ギターのレイヤー。そしてささやくような男女ボーカル。心地よい混乱の中で感情が揺さぶられるような唯一無二の世界観が提示されています。
そして、そのコアとなるのはShieldsによる異常なまでの音響工作にあります。
「リバーブを深くかけている」と誤解されがちですが、ミックス・エンジニアのAlan Moulderは「Kevinはすべてを可能な限りドライに録ることを求めた。ギターアンプを毛布でぐるぐる巻きにして、部屋の残響を徹底的に排除した」と証言しています。
あの空間がぐにゃりと歪む揺らぎの正体はリバーブではなく、Shieldsが独自に確立したグライド・ギターという手法です。
ジャズマスターのトレモロ・アームをテープで固定して「完全には締まらない」状態にし、常に握りしめたままコードをストロークしながら絶え間なくピッチを上下させる——ShieldsはTape Op誌でこう語っています。
「コードをただ弾くのではなく、チューンの中へ持ち上げるように弾く。それだけだ。信じられないほど単純で、こんなことが以前に起きなかったのが不思議なくらい。ただ、聴いていない人間には、外れた音をべちゃべちゃ弾いているとしか聴こえない」と。
もうひとつの「秘密兵器」がYamaha SPX90というラックマウント型マルチエフェクターのリバース・リバーブ・プログラムです。
ShieldsはTape Op誌で「もし秘密兵器があるとすれば、それがAlesis Midiverb IIとYamaha SPX90だ、そしてどちらも使うのはリバース・リバーブ・プログラム」と明言しています。
通常のリバーブが音の「尾」を残すのに対し、リバース・リバーブは攻撃の瞬間を飲み込み、音が「始まる前」から静かに膨らんでくる——そのサウンドについてShieldsは「完全に溶けた、液体のような音」と形容しました。「To Here Knows When」「Blown a Wish」でその効果が最も濃く聴けます。
「Only Shallow」の特徴的なスクリームするリフには、さらに特殊な手法が使われています。
Sound on Sound誌のインタビューでShieldsはこう説明しています。「1960年代のBurmanアンプとFender Showmanを向かい合わせに置き、それぞれに異なる速度のトレモロをかけながら、マイクを真ん中に1本立てた。4つの異なる速度のトレモロが同時に走っている状態になる。それをAkaiサンプラーに取り込んで逆再生し、順再生と逆再生を同時に走らせてから、1オクターブ上で弾いた」と。
完成した音は「ジェットエンジンの轟音」とも「掃除機の音」とも表現されますが、そのどちらでもない何か——ギターの「形」を完全に失った音が、ここにあります。
ドラムの多くもまた、独特の方法で作られています。
Colm Ó Cíosóigが録音期間中に病気で長期間欠席したため、Shieldsはすべてのドラムヒットとビートを録音し、それを切り貼りしてアルバムの9曲分のドラム・トラックを手作業で構築した。
ライブでÓ Cíosóigが実際に演奏しているのは「Only Shallow」と「Touched」の2曲のみで、他はすべてShieldsが組み上げたサンプルです。
完成したドラムの質感はPublic EnemyのBomb Squad的なミッドヘビーなサウンドで、特に「Soon」にはその影響が色濃く出ています。
Bilinda Butcherのボーカルは、主役として真ん中に座ることはありません。楽器の一部としてミックスに埋もれ、ディストーションの粒子と同化している。
これも意図的な設計で、Shieldsは「声に一切のリバーブをかけなかった。代わりに10数本のボーカル・テイクを重ねて同時に流した。そうすると自然なコーラス効果が生まれて、天使的で繊細な質感になった」と語っています。
フェイザーもコーラス・ペダルも使わず、人間の声の複数テイクの重ねによって生まれた「自然なコーラス」——それがBilindaの声があれほど溶けて聴こえる理由です。
だから言葉ではなく、感情のバイブレーションが直接届く。ボーカルが「声」として聴こえなくなる瞬間に、このアルバムの本当の聴き方が始まります。
楽曲解説
Only Shallow
イントロの4打のドラムから、即座に襲いかかる爆音の津波。
左右のスピーカーから押し寄せるディストーションの層は、もはやギターの音というよりジェットエンジンの轟音です(最初は掃除機の音だと思っていたのですが)。
そのカオスの中にBilindaの歌声が重なった瞬間、暴力的な音塊がこの世のものとは思えないほど美しい色彩に変わります。
このリフが異質に響く理由のひとつはチューニングにあります。
Shieldsは E-B-E-G#-B-E(Esus2)という開放弦チューニングを使っており、E音とB音が複数の弦に分散された状態になっている。弾いただけで「EとBの間に浮かんでいる何か」という複雑な倍音クラスターが生まれ、ここにグライド・ギターのピッチの揺れが重なると、コードの「輪郭」そのものが失われていく。
和声の「材料」は普通のポップ・ソングと大差ないのに、あれほど異質に聴こえるのはチューニングとグライドの組み合わせによるものです。
When You Sleep
アルバム中、最もポップでありながら最も中毒性が高い1曲。
揺らぐギターの渦と甘いメロディが完璧に調和しています。数百のレイヤーが重なっているにもかかわらず、不思議と透明感があり、ヘッドフォンで聴くと高域の粒子が皮膚に直接触れるような錯覚を与えます。
Sometimes
私がこのアルバムで最も愛している曲がこれです。
他の曲が「外側から押し寄せるノイズ」だとしたら、「Sometimes」は「内側から溢れ出すノイズ」のような響きを持っています。
アコースティック・ギターのような質感のディストーションが幾重にも重なって巨大なクッションを作り上げ、その中にBilindaの囁きが沈んでいく。低域のベースは心臓の鼓動のように脈打ち、高域のリフレインは夢の中で見た光のよう。
激しいはずの音が、なぜか一番静かな場所へ連れて行ってくれる。
和声的にも、この曲は他のトラックとは別の構造を持っています。
D中心のオープン・コード(D – Bm11/D – Em11/D – G – Aadd11/D)を軸に展開し、Dのルートを低音に保ちながらその上の和音だけが変化していく——ペダル・ポイントと呼ばれる手法です。
コードが移行しても低音が動かないため、調性感はぼんやりしながらも「居場所」は常にある。「Only Shallow」や「Blown a Wish」の浮遊感とは根本的に異なる、穏やかな安定感がこの曲にあるのはそのためです。
Blown a Wish
「To Here Knows When」と並んで、リバース・リバーブの効果が最も濃く聴ける曲です。
音が「始まる前」から静かに膨らんでくる——通常のリバーブとは逆向きに時間が流れているような感覚があります。
チューニングは F#-C#-F#-B-B-G# という特殊なもので、6弦すべてがF#かBに集中しています。
すべての弦がほぼ同じ音を響かせる状態でグライド・ギターをかけると、音は「コード」ではなく「密度」として聴こえてくる——単音が積み重なった和音ではなく、空気の圧力のような何かです。
Shieldsが「完全に溶けた、液体のような音」と表現したリバース・リバーブが、このチューニングと組み合わさったとき、和声は最終的に「形」を失います。
Soon
アルバムを締めくくる1曲。マッドチェスター・ムーブメントにも呼応したダンサブルなグルーヴで、執拗に繰り返されるドラムの上で、歪んだギターがうねり続けます。
それまでの夢のような浮遊感が、ここで初めて地面を踏む感触を取り戻す——そのコントラストがアルバムの締めくくりとして正確に機能しています。
まとめ
このアルバムが提示した爆音の美学は、スタジオの中だけでは終わりません。
My Bloody Valentineのライブは、ロック史上類を見ないほどの音圧で知られており、会場では観客に耳栓が無料配布されるのが通例となっています。
特にライブ終盤、代表曲「You Made Me Realise」の途中で挿入される「ホロコースト・セクション」と呼ばれるノイズ・パートは、数十分間にわたって爆音が鳴り響き、会場が物理的に揺れ、吐き気や気絶を催す観客すら現れるそうです。
お金を払って行ったライブでそんな体験はまっぴらごめんですが、Shieldsにとって音楽とは耳で聴くものではなく、肉体全体で浴びるものなのでしょう。
『Loveless』は、リリースから30年以上経った今も、その音の壁の中に新しい発見が隠されています。
最初は雑音のように聴こえるかもしれない。でもその奥に隠された轟音の甘さに気づいたとき、もう後戻りはできません。

