フランク・オーシャン(Frank Ocean)おすすめ名盤『channel ORANGE』全曲レビュー|2010年代オルタナティブR&Bの最高到達点

フランク・オーシャン(Frank Ocean)おすすめ名盤『channel ORANGE』全曲レビュー|2010年代オルタナティブR&Bの最高到達点 R&B / Soul / Funk

2012年7月10日。Def Jamから放たれた『channel ORANGE』は、R&Bというジャンルの定義を鮮やかに塗り替えた。

当時25歳だったFrank Oceanが、緻密な音響設計と文学的なナラティブを注ぎ込んだこの17トラックは、Metacriticで96点を記録するなど2010年代を通じてトップクラスの評価を確立。今なお色褪せることのない、現代のポップミュージックの到達点の一つとして君臨し続けています。

2週間で書いた曲を、1年かけて録音した

channel ORANGEの制作はNostalgia, Ultra(2011年)のリリース直後、2011年2月に始まりました。OceanはMalay Ho——アトランタで出会い、ロサンゼルスで再会した長年の友人であり協力者——とともにキーボードとギターを弾き合いながら即興でアイデアを積み上げ、曲の骨格を2週間で書き上げた。

Oceanはこのセッション中、初めてアイデアを頭の中に保存するのをやめてラップトップで直接入力するようになった。「曲は全部スケッチの段階だったけど、頭の中では完成した音が聴こえていた。あとはそれを仕上げるだけだった」とOceanは語っています。

録音場所は複数に分かれていました。ハリウッドのEastWest Studios(1960年代のヴィンテージ機材が揃ったスタジオ)を中心に、Henson Recording Studios、Record Plant、Manhattan Sound Recording、San Ysidroなど計7スタジオ以上。セッションはしばしば18時間、22時間、ときに28時間に及ぶマラソン録音になりました。

特筆すべきはOceanがほぼ単独でボーカルを録音したことです。曲の骨格が完成した後、Malay Hoと再合流する前に数ヶ月間ひとりでボーカルを録音した。自分が納得できるレベルに達してから初めてMalayとスタジオに戻った——あのアルバムの「親密な日記のような」質感は、その孤独なセッションから生まれています。

トラックリストはリリース前にすでに確定していて、OceanとMalayはその順番通りに曲を録音しました。「アルバムとして設計された順序で録音することで、曲と曲の間の空気が自然につながる」という発想です。

Malayはこう語っています。「Frankがいつも言っていたのは、ベストソングはシングルではないということだった」——Stevie Wonder、Marvin Gaye、Sly Stone、Pink Floydといったアルバムアーティストを手本にしてアルバムという形式そのものを作ろうとした姿勢が、このひとことに凝縮されています。

アルバムタイトルはOceanのグラフェム-色覚共感覚(文字や数字に色が見える能力)に由来しています。19歳で初めて恋をした夏が「オレンジ色」として記憶されている——その色をアルバムタイトルにした。

犬の名前「Everest」がエグゼクティブプロデューサーとしてクレジットされているのは、Oceanが自分を「焦点」にしたくなかったからです。

オープンレター——リリース6日前の告白

2012年7月4日、OceanはTumblrに手書き風のテキストを投稿しました。19歳のときに初めて恋をした相手が男性だったこと、その恋は報われなかったこと——それを静かに、しかし詩的な言葉で綴ったものです。

「I was 19 years old. He was too. I don’t know if he was straight. I never had the courage to ask.」という文章は、それ単体でも文学的な質を持っていました。

この投稿はR&B/ヒップホップ界における最初の主要なカミングアウトのひとつとして広く報道されました。Beyoncéは「自分の真実をあなたのように明確に見つけられたら、みんなそんなに幸運だ」とコメントし、Jay-ZやKanye Westも支持を表明しました。

ただしMalayは後にこう述べています。「俺はずっとあのアルバムの男性代名詞を詩的表現だと思っていた——あの投稿を読むまで」。長年の協力者でさえ知らなかった。そのことが「あの告白がどれほど内側に抱えられていたか」を示していると私は思います。

音響設計——EastWestのヴィンテージ機材と、Malayの楽器哲学

channel ORANGEの音はアナログとデジタルの境界線上に立っています。

EastWest StudiosのスタジオはFrank Sinatra、The Beach Boys、Nat King Coleが録音した1960年代のヴィンテージ機材を今も現役で使っていて、Malayはその機材を活かしながらPro Toolsで構築するというハイブリッドなアプローチを取りました。

ボーカルはFairchild 670コンプレッサーとTube-Tech CL 1Bオプトコンプレッサーで録音されています。FairchildはBeatlesのAbbey Roadセッションで多用された伝説的な機材で、「暖かさと奥行き」を与えながらも音量の揺らぎを自然に保つ——あのアルバムのボーカルが「近くて素直」に聴こえる理由のひとつは、この機材選択にあるのではないか。

ファルセットと物語——Oceanのボーカル技法

OceanのChannel Orangeにおけるボーカルの最大の特徴は「語り手の切り替え」です。

「Pyramids」ではクレオパトラを失ったファラオと現代のピンプを演じ、「Bad Religion」では感情を告白する人物を演じ、「Crack Rock」では薬物依存者の家族を描く——Oceanはこれについて「俺は語り手だ。作品は俺ではない。映画監督が自分を描かないのと同じ方法で、俺は自分の声でありながら登場人物たちを演じている」と述べています。

ファルセットの使い方も精巧で、ヴァースでは落ち着いたテナーで「語り」、コーラスに向かうにつれてファルセットに移行して「感情の沸点」を示す——この構造が「Thinkin Bout You」「Bad Religion」「Forrest Gump」に共通しています。ファルセットは単なる「高い音域」ではなく「感情の温度計」として機能しています。

マルチトラックのハーモニーも重要な要素で、「Crack Rock」では多重録音されたボーカルが「パイプからのヒットのように」フラッシュ的に現れてはミックスに溶けていく——その「溶けていく」感覚が、薬物の快感と依存の空虚さを音で表現しているのではないかと思います。

全曲解説

Start

このアルバムの始まりはPlayStationの起動音——「これはゲームの世界に入る」という宣言として機能しています。

Thinkin Bout You

続く「Thinkin Bout You」はその世界の最初の画面です。シンセパッドの穏やかなループにOceanのファルセットが乗る。

ヴァースは落ち着いているのにコーラスで「a tornado flew around my room before you came」という突然の比喩が来て、感情の突発性が言葉で爆発する。

「Do you think about me still? / Or do you not think so far ahead」——相手を思い続けながら、相手が自分を思っているかどうかすらわからない非対称な愛の構造が、このアルバム全体のテーマを1曲目で提示しています。

和声的には、Aマイナーを軸にFメジャーとGメジャーが漂うエオリアン的な進行で、「解決を保留しながら感情が宙に浮き続ける」構造が歌詞の「報われない待機」と対応しているのではないかと私は解釈しています。

Fertilizer

ラジオのチャンネルを回したときに流れるCMのような30秒のインタールード。

「Thinkin Bout You」の切実さの直後に配置することで、感情の落差がアルバムの「チャンネル」を変える行為そのものを示しているのではないかと思います。

Sierra Leone

チルウェーブとクワイエット・ストームの中間にあるような曲。ウィンドチャイムとlo-fiビートの上でOceanが「ティーンエイジャーのときの欲望と、想像の中で授かった娘への子守唄」を描きます。

「Baby girl, if you knew what I know」というラインはこのアルバムで最も「父性」に近い瞬間で、その後の「Bad Religion」「Forrest Gump」で描かれる愛の報われなさと対置すると、Oceanが「与える愛」と「求める愛」を同時に描いていることがわかります。

Sweet Life

Pharrell Williamsが共同作曲・共同プロデュースした曲。「Sweet Life」というタイトルはその名の通り甘い生活を歌っているように聴こえますが、「Why see the world when you’ve got the beach?(世界を見に行く必要がある?ビーチがあるじゃないか)」という繰り返しは特権の中の視野の狭さへの静かな批判として読めます。

Pharrellのプログラミングとベースセクションが「ゆったりとした豊かさ」の音を作り出していて、その豊かさが批判の対象でもあるという構造が面白い。

Not Just Money

「Sweet Life」と「Super Rich Kids」をつなぐスポークンワード・インタールード。女性の声で「お金よりも大切なものがある、家族を養えずにいる」という内容が語られる。

「甘い生活」を描いた曲と「スーパーリッチな子供たち」を描いた曲の間に「お金では買えない現実」を挟む——アルバムの「特権の批判」というテーマが最も直接的に言語化された30秒です。

Super Rich Kids

Earl Sweatshirtが参加した、特権層の虚無を描くシニカルな曲。イントロのピアノリフはElton Johnの「Bennie and the Jets」を明確に参照していて——高校生でもわかるほど有名な曲を「アイロニーの衣」として使っています。

「Too many white lies and white lines(白い嘘と白い粉が多すぎる)」——「white lines」がコカインの隠語であることを知ると、「甘い生活」の毒が見えてくる。

Earl Sweatshirtのバース最後の「Real love, I’m searching for a real love」はMary J. Bligeの引用で、そのひとことがこの曲のシニシズムを突き抜けて感情として届く瞬間です。

Pilot Jones

薬物依存のパートナーとの関係を描いた曲。「I just don’t know why I keep on trying to keep a grown woman sober」——相手を「正しい状態」に保とうとしながら、その関係の依存性から自分も抜け出せない。

曲の質感はアルバムの中で最もlo-fiに近く、ローファイなビートと霞がかったシンセが「すでに遠い関係の記憶」のような感触を作り出しています。

Crack Rock

薬物依存者の孤立と、そこから生まれる家族の断絶を描いた曲。前半は静かなラメントとして始まり、後半で「麻薬戦争」への激しい告発に変わる。

「You don’t know how little you matter until you’re all alone in the middle of Arkansas with a little rock」——この一行の情景描写の正確さが、抽象的な「薬物問題」を具体的な「人間」の話として着地させています。

マルチトラックのハーモニーが「パイプからのヒットのように」フラッシュ的に現れてはミックスに溶けていく処理は、快感と依存の循環を音そのものとして体現しているように思えます。

Pyramids

9分54秒、このアルバムの核心。前半はFマイナーキーで書かれた古代エジプト——クレオパトラを失ったファラオの絶叫から始まる。

Mellotronの合唱、Omnisphereのシンセリード、アナログベル、アルペジエーター、アナログパッドが重なる音は、70年代ファンクと80年代シンセポップとプログレッシブロックが同時に鳴り響く異様な豊かさを持っています。

4分26秒でビートスイッチが起きる——「Pyramids」から「pyramid(ストリップクラブ)」へ、古代エジプトから現代のモーテルへ、時代が3000年跳ぶ。

この転換のためにMalayは第2部のキーを第1部からピッチダウンしています。キーが「下がる」ことが「現代の堕落」という歌詞のテーマと呼応しているのは深読みのし過ぎでしょうか。

Lost

映画「Fear and Loathing in Las Vegas」の台詞サンプルで始まるポップな曲——ドラッグディーラーとドラッグミュールの関係を描きながらも、そこに「愛」がある。

MalayのMoog Voyagerが生み出すバウンシーなシンセリードは、このアルバムで最もラジオフレンドリーなサウンドで、実際に「Lost」はチャンネルを回したときに「かかっていてほしい曲」として設計されていた、とMalayは語っています。

White

John Mayerが録音したアトモスフェリックなギターを重ねた1分半のインタールード。短い曲ですが「Lost」の後に置かれることで、その明るさが「白く飛ぶ」ように消えていく感触を持っています。

Monks

ライブコンサートへの熱狂を宗教的な恍惚と重ねた曲。曲の後半でOceanと恋人が夜の喧騒から逃げようとする——コンサートという集団的恍惚から個人的な親密さへの移行が、スタジアムサウンドから室内楽的な静けさへの音楽的移行と対応しています。

Bad Religion

このアルバムで最も「剥き出し」の曲。ハモンドオルガンのコードとスネアドラムとストリングスだけで始まる。

EastWest Studiosのエンジニア、Jeff Ellisは数少ない弦楽奏者を大人数のように録音するため、広いスタジオ1にオールドのステレオリボンマイクを配置して「弦楽オーケストラのように聴こえる」空間を作り出しました。

「Taxi driver, be my shrink for the hour」——タクシーの運転手に心を開くという設定は、「専門家に話す勇気はないが、匿名の他者には話せる」という感情の正確な描写です。

「It’s a bad religion / To be in love with someone who could never love you」——報われない愛を「悪い宗教」と呼ぶこの比喩の中に、「I can never make him love me」という男性代名詞が含まれていた。

アルバムのオープンレターなしに聴いた場合と、あとで知ってから聴き直した場合で意味が変わる——そのことがこの曲の感情的な深度を二重にしています。

和声的には、Fマイナーを軸にD♭とA♭とE♭が行き来するエオリアン的な進行で、最後までドミナント解決が起きません。「愛は決して報われない」というテーマが、「解決しない和声」として音楽的に体現されています。

Pink Matter

André 3000が参加した、「心とは何か」「意識はどこにあるか」という哲学的な問いを愛と性と交差させる曲。

「What is it? Is it anything?」とOceanが問い、André 3000が「What do you call your nether region?」と続けるバース——二人の視点が「物質と精神の境界線」という同じテーマを全く異なる角度から照らしています。

Forrest Gump

映画「フォレスト・ガンプ」の主人公を愛する人物として描いたクローザー。「You run my mind, boy(あなたは僕の心を走り続けている)」——フォレスト・ガンプが走り続けるイメージが、頭から離れない恋の比喩として機能している。

このアルバムの「追いかけられない愛」シリーズの最後を飾る曲として、ランニングというイメージは完璧な着地だと私は思います。

End

誰かが車を降りて自宅に入っていく音——「Start」のPlayStation起動音と対になるエンディング。ゲームが終わって、プレイヤーが現実に戻っていく。

17トラックの「世界」から外に出る音として、これ以上シンプルで完璧なクローズはないと思います。

channel ORANGEとは何だったのか

このアルバムがR&Bである理由は、音楽性もさることながら、その感情の語り方にあります。

Stevie WonderやMarvin Gayeが体現した「個人の感情を普遍として歌う」という行為を、Oceanは「語り手をキャラクターに置き換える」という手法で更新した。

クレオパトラでも、タクシードライバーに告白する人物でも、スーパーリッチなキッズでも——全員がOceanの感情の断片を生きている。その多声性がこのアルバムを「特定の時代の記録」ではなく「普遍的な感情の地図」にしているのだと思います。

25歳のデビューアルバムとして、これほどの構造的な成熟を持つ作品は珍しい。

次作Blondeに比べてより「聴きやすく」「キャラクターが立っていて」「物語がある」という点で、channel ORANGEは入口として、そしてBlondeは到達点として、この二枚は対になって聴くべき作品だと私は思っています。

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