Jimi Hendrix(ジミヘン)の『Electric Ladyland』は、1968年にリリースされた The Jimi Hendrix Experience としての3枚目にして最後のスタジオアルバムだ。全16曲、2枚組 LP。アルバム・カバーには「produced and directed by Jimi Hendrix」と刻まれている。
その宣言を、75分が証明した。
Rolling Stone 2020年版「史上最高のアルバム500枚」53位、1999年グラミーの殿堂入り。しかしどの数字よりも雄弁なのは、56年後も世界中のギタリストがこのアルバムの前で立ち止まり続けているという事実だろう。
John Frusciante(元 Red Hot Chili Peppers)はこう語っている。「『Electric Ladyland』は、彼が音をあらゆる次元でケアしているからいつも完璧に聴こえる。多くの人が音楽を2次元で考えるとき、彼は4次元で考えている。歴史上、より優れたギタリストはいないと思う」と。
録音は1967年7月、ロンドンの Olympic Studios で始まった。状況が大きく変わるのは1968年4月、ニューヨーク市にオープンしたばかりの Record Plant Studios へ場を移してからだ。当時 Record Plant は米国内に2台しかない12トラック・コンソールのひとつを持つ最先端スタジオで、エンジニア は「Jimi に初めて16トラックで作業してもらったとき、各テイクは違うものになっていた——それが録音というものだったんだ」と語っている。
制作が進むにつれてプロデューサーの Chas Chandler は限界を感じ始め、1968年5月に去った。これによってジミヘンは唯一のプロデューサーとなり、スタジオという空間を文字通り自分の楽器として使い始める。
音楽性
ギター奏法の革新性
ジミヘンのギター技法の核心は「リズムとリードを同時に演奏する」ことだ。コードを弾きながらメロディックなフィルを入れ、ハンマリングとプリングによる装飾を挟み、スライドとビブラートで音に表情をつける——それが一連の動作として途切れなく流れる。
そのコード・ヴォイシングを可能にしたのがサム・フレッティング——ネック上側に親指をかぶせてルート音をフレットする技法だ。これにより人差し指〜小指の4本が高音弦側の和音と装飾フレーズに専念できる。通常のグリップでは届かない「ベース音+コード+メロディー」の同時演奏が、この持ち方で初めて可能になった。
エフェクトの使い方も本質的に革新的だった。ジミヘンはカナダの TV インタビューでワウについて「音符はない。ただ真っすぐ踏んで、ビブラートを使うと、孤独、フラストレーション、何かを求める感覚が出てくる」と語った。彼にとってエフェクトは音色の道具ではなく、感情の語彙だった。
和声の革新性
ジミヘンの和声言語の最大の特徴は「メジャーとマイナーを同時に鳴らす」ことだ。その象徴がいわゆる「ヘンドリックス・コード」——dominant 7th ♯9(7#9コード)だ。メジャー3度とマイナー3度を同時に含むこのコードは、「ブルース・スケール全体を一つのコードに凝縮したもの」と評されている。
重要なのは、ジミヘンはこのコードを通常の機能和声として使わず、トニックとして静的に、あるいは平行移動させながら使った点だ。その使われ方は曲ごとに全く異なる顔を見せる。
楽曲解説
Crosstown Traffic
アルバム中、最もコンパクトに「ジミヘンのポップ・センス」が詰まった曲だ。Redding のベース、Mitchell のドラムにジミヘンの R&B リフが重なり、そこへ紙製コームのカズー(クレジットに「comb and paper」とある)が加わる。2分そこそこの密度の濃さは他曲と際立った対比をなす。
コード進行は A – D/A – A7 という一見シンプルな構造だが、ジミヘンはその上でマイナー・ペンタトニックのフレーズとメジャー系のアプローチ・ノートを混在させ、メジャー/マイナーの曖昧さを持ち込む——ヘンドリックス・コードの和声言語が、シングルの尺に凝縮された形だ。
Voodoo Chile
約15分。1968年5月2〜3日深夜のセッションで生まれた即興ブルース・ジャムで、Steve Winwood のオルガンと Jack Casady のベースをフィーチャーした布陣だ。Kramer はこう書いている。「Jimi と Steve Winwood の間の音楽的な対話は背筋が震えるほどだった」と。
E のスロー・ブルースを基盤に展開し続け、15分という尺の中でジミヘンがどこに向かうか予測できない——これがこの曲の最大の魅力だ。
Gypsy Eyes
50テイク以上を費やした曲だが、完成品はその労苦を全く感じさせない。ジミヘンがベースも含めてほぼすべての楽器を演奏しており、フェイジング・エフェクトが音全体を薄くエコーさせる。
歌詞は亡き母 Lucille への思慕を描く。ジミヘンは声への自信のなさから、スタジオで仕切り板の陰に隠れてボーカルを録ることが多かった——その内向的な姿勢がこの曲の繊細さにも滲んでいる。
1983… (A Merman I Should Turn to Be)
13分39秒。アルバム最大の野心作だ。ジミヘン、Mitchell、Chris Wood(フルート)が作り出す音景は、ベトナム戦争の惨禍から逃れ海の生き物へ変容するという物語を、音響によって体験させる。
和声的には本作で最も大胆な実験が施されている。13分の展開の中で、ジミヘンはブルース・ロックのコード語法、瞑想的なアルペジオ、ほぼ無調に近いサウンドスケープを行き来する。ここにジミヘンが John Coltrane、Miles Davis のモーダル・ジャズから吸収したものが明確に顔を出す。
中盤では「カモメ」のような音が鳴る——実際にはジミヘンがヘッドフォンをマイクに被せてフィードバックさせ、Kramer がディレイを加えて生み出した音だ。Kramer は「彼は色と空間とタイミングの感覚が素晴らしかった——そのタイミングは完璧だった」と語っている。「1983」は歌であると同時に映画だ。
All Along the Watchtower
Bob Dylanのオリジナルの発表から2ヶ月も経たない1968年1月21日に録音が始まり、27テイクを重ねたのち、6月から8月にかけてさらにオーバーダブとリミックスを重ねた。最終的に16トラックが使われている。
完成したカバーについて Dylan 自身はこう語っている。「本当に圧倒された。彼は曲の中に他の誰も見つけようとしないものを見つける才能があった。おそらく彼が使っていた空間によって曲を改良した。私は実際に彼のバージョンからその曲の演奏にライセンスを与えられ、今日も続けてそうしている」と。
後世に与えた影響
Jeff Beck は「最初の衝撃波は Jimi Hendrix だった。それはここ(英国)の全員を揺さぶった大きな出来事だった。俺たちは全員ギター・フィールドでかなり確立されていたが、彼はある晩にすべてのルールをリセットした」と語っている。
Prince については微妙な関係性がある。晩年には「Jimi Hendrix から学んだ。みんな彼にトリックをやらせたがったが、キャリアの終わりには彼はただ演奏したかっただけだった」と語っている。比較を拒みながら、演奏では深い親密さを示し続けた——これはある種の誠実さだと思う。
影響はスタジオの文脈にも及んだ。ジミヘンの「スタジオを楽器として使う」姿勢——フィードバック、バックワード・テープ、ステレオ・パンニングを感情表現として使うこと——は、その後の多くのロック・アーティストのレコーディング・アプローチを変えた。そしてジミヘンは1970年、自分自身の名を冠したスタジオ Electric Lady Studiosをニューヨークに建設した——その建物は今日も動き続けている。
まとめ
ジミヘンは1970年9月18日に27歳でこの世を去った。『Electric Ladyland』からわずか2年後のことだ。
Kurt Cobain は言った——「グランジが Seattle を地図に乗せたと言う人がいるが、Jimi Hendrix がいたじゃないか」。John Mayer は「自分がギタリストとしてどういう人間かは、Jimi Hendrix になれなかったという失敗で定義される」と語った。
このアルバムで何が起きているか、すべてを理解するには一生かかるかもしれない。ただ、最初の10秒が鳴った瞬間から何かが始まる——その感触だけは、誰にでも届く。