Fiona Apple の『Fetch the Bolt Cutters』(2020年)は、52分間ずっと誰かに怒鳴られているような感覚で聴き終わる。それなのに、もう一度再生したくなる。前作から8年。ヴェニス・ビーチの自宅に5年間こもって作り上げたこのアルバムは、彼女のキャリアの中で最も生々しく、最も自由な作品だ。
制作に参加したのは Amy Aileen Wood(ドラム)、Sebastian Steinberg(ダブルベース)、Davíd Garza(ギター他)。Apple 自身が全曲を書き、プロデュースも担った。
制作背景
このアルバムの出発点は、Apple が家に転がっていた打楽器を手当たり次第に叩き始めたことだった。「Newspaper」と表題曲の2曲が最初にできたのだが、それは遊びのつもりだったと Apple は語っている。「叩いて遊んでいるだけのつもりだった。でも聴き返したら——これが自分だと思った。だから歌詞を書かなければと思った」。
使用ソフトはGarageBand——Macに標準搭載のアプリだ。Apple はその操作方法をほとんど知らなかった。「テイクを短く編集する方法がわからなかったから、各トラックは全部一本の長い録音になっている。ミスをしたら、そのまま弾き続けて、ミスが音楽の一部になるように乗り越えていった」。この「知らないからできた」録音の姿勢が、アルバム全体のサウンドを決定した。
アルバムタイトルは、Netflixの犯罪ドラマ『ザ・フォール』のセリフから来ている。Gillian Anderson 演じる刑事が、監禁された女性を救出しようとする場面で発したひと言だ。Apple はその言葉をすぐに黒板に書き留め、「これがアルバムのタイトルだ」と決めた。アルバムの中心メッセージを Apple はこう説明している——「自分を解放するための道具を取りに行け。自分を自由にしろ」。
Pitchfork はリリース当日に10点満点を付けた。これは Kanye West の『My Beautiful Dark Twisted Fantasy』(2010年)以来の快挙だった。
音楽性
このアルバムはアート・ポップとエクスペリメンタル・ロックの中間にいる。ただし、どちらのジャンルの典型的なサウンドとも大きく異なる。最大の特徴はリズムの設計にある——打楽器が主役だ。
Apple は子どもの頃から OCD(強迫性障害)を抱えていて、学校への通学路でリズムを外さないように葉っぱを踏んでいたと語っている。その身体にしみついたリズム感覚が、このアルバムの打楽器的な発想の根にある。
ドラムセットに加え、家具、金属製のオブジェ、壁、日用品——あらゆるものが叩かれている。亡き愛犬 Janet の骨まで打楽器として使われた。Apple が「打楽器のオーケストラ」と呼んだのは大げさでない。
ピアノの使い方も独特だ。Apple のピアノは流麗さより打鍵の質感を優先していて、コードを「弾く」というより「ぶつける」に近い。和声的には Cメジャーを基調とした比較的シンプルな進行を用いながら、転回形(スラッシュ・コード)や借用和音を混ぜ込むことで予測できない動きを作る。
特に「I Want You to Love Me」では、上声部と下声部が逆方向に動く声部進行が曲全体を通じて緊張を生んでいる——左手が降り、右手が上がる。その逆方向の引っ張り合いが感情の収拾のつかなさを和声で体現している。
ボーカルの扱い方は、このアルバムで最も際立って変わった部分だ。Apple はインタビューでこう語っている——「声を使って楽しんでいるが、きれいに聴かせようとはしていない。歌えることを誰かに証明しようとしているわけでもない」。動物的な叫び、低い囁き、語り、ハーモニー、そして意図的な音程のずれ——声は感情の状態を直接記録する装置として使われている。ミックスで声が楽器の後ろに沈んでいる場面も多く、それ自体が設計の一部だ。
曲の構造は、ポップの定型であるAメロ-Bメロ-サビの繰り返しを拒否する。突然の停止、テンポの変化、ループする断片、解決しない和声——その予測不能さが、何度聴いても「次に何が来るかわからない」感覚を維持する。
楽曲解説
I Want You to Love Me
アルバムの一曲目。「I’ve waited many years(私は長い年月を待った)」という最初の一行で、8年間の沈黙を一気に回収する。
Cメジャーを基調にしながら、左手のベース音が半音ずつ降下する動きと、右手が上昇しようとする動きが逆方向に引っ張り合う。「落下していく感覚」の中で上へ向かおうとする——この和声の構造が、曲全体に感情の収拾のつかなさを与えている。4分過ぎ、Apple の声が突然コントロールを失ったように叫びへと変容する。そこが聴きどころだ。音程が正確なまま、声は「制御を失っている」という逆説的な演奏で、曲のテーマをそのまま音にしている。
「I know none of this will matter in the long run, but I know a sound is still a sound around no one(長い目で見れば何も意味がないとわかっている。でも、誰もいない場所でも音は音だ)」——自分の感情を発することの意味を、直接そう言葉にした一節だ。これがアルバム全体のスタンスを宣言している。
Shameika
アルバムのリード・シングルで、グラミー賞最優秀ロック・パフォーマンスを受賞した曲だ。タイトルは実在の人物の名前——Apple が中学時代、同じ学校にいた女の子 Shameika Stepney がモデルだ。
女子グループに拒絶された Apple に、Shameika が歩み寄って言ったひと言——「あんたはポテンシャルがある」。その言葉が何十年も Apple の頭の中にあり続けた。アルバムのリリース後、二人は実際に再会を果たした。
Aドリアンを基調とした主部が途中で Ab リディアン的な色彩へ転調するなど、曲内での調性の動きが大きい。コーラスに向かって打楽器が雪崩のように積み重なる場面——「But Shameika said I had potential(でも Shameika は私にポテンシャルがあると言った)」の連呼——で解き放たれる快感がある。コーラスの直前、一瞬だけ音がすっと引く瞬間を聴いてほしい。その「間」があるから、コーラスの爆発が倍加する。
Under the Table
Apple がある夜の食事に同席したとき、ストリーミング・サービスの「有力者」に延々と説教され続けた体験から生まれた曲だ。Apple は当時の交際相手と同席していて、相手がその男の話に合わせている間、Apple は黙らされ続けた。
「Kick me under the table all you want / I won’t shut up(テーブルの下から何度蹴ってもいい、私は黙らない)」——この一節はそのまま曲の骨格だ。打楽器的なビートがその宣言を物理的に支えていて、歌詞だけでなく音が「黙らない」構造になっている。「I would beg to disagree but begging disagrees with me(反論したいが、懇願することは私の流儀ではない)」という韻のキレにも注目してほしい。曲の後半、声と打楽器の密度が上がっていく場面——そこで Apple の声は怒鳴りに近づく。感情の温度が正確に記録されている。
Fetch the Bolt Cutters
表題曲は、ピアノの打鍵音と犬たちの吠え声が同じビートの上で走り続ける。音程が確定しない打楽器と、音程の確定するピアノが同じテンポで並走することで「整理されていない怒り」の質感が生まれる。Kate Bush の声がサンプルとして使われていて、「You — come out of the cupboard(さあ——押し入れから出てきなさい)」という一節が流れる。ジャンルを超えた先達への敬意と、自分自身への命令が重なる瞬間だ。
「Fetch the bolt cutters, I’ve been in here too long(ボルトカッターを持ってきて、ここに長くいすぎた)」——この繰り返しが7分近く続く中で聴きどころは終盤にある。3分を過ぎたあたりから犬の吠え声が増えていき、4分台でリズムがより激しくなる。そして6分半を過ぎたあたり、最後に全部が一度にぶつかって止まる。その唐突な終止が、解決を拒否したままアルバム全体のテーマを体現している。
For Her
性的暴行の体験を正面から書いた曲だが、Apple 自身の体験ではない。かつて映像制作の現場で働いていた女性——Apple の友人——が被害に遭った体験のために書かれた曲だ。「This is a song for her」と Apple はインタビューで明言している。
「Good morning(おはよう)」という言葉でコーラスが始まる。その「おはよう」の直後に続く言葉の暴力的な落差が、曲全体の緊張を決定する。声とリズムの質感は——ある批評家が「女性刑務所の労働現場の実況録音のよう」と書いた——ざらついた金属的な音で、感情を「きれいに」しない。コーラスの最初の「Good morning」を聴いた瞬間から何かが来ると身構えてしまうのは、曲の構造がそれを要求しているからだ。
まとめ
GarageBand と日用品の打楽器と愛犬の吠え声で作ったアルバムが、2020年のアルバム・オブ・ザ・イヤーになった。その事実だけで、音楽が「何で作られるか」についての私たちの思い込みの多くが崩れる。
Apple は2020年のリリース時、ロックダウンを予期していたわけではない。しかし5年間自宅に籠もって作り続けた音楽が、全世界が同じように閉じ込められた瞬間に届いた。その偶然が、このアルバムに時代の刻印を押した。
ただ、このアルバムの強さは時代性とは関係ない。声を武器にして、感情を隠さず、構造を拒否して、それでも音楽として成立させる——Fiona Apple というアーティストが5年間かけて到達した地点が、ここにある。

