The National の4枚目のスタジオアルバム『Boxer』は、2007年にリリースされました。
初週のセールスはわずか9,500枚でした。しかし2019年の The Guardian の「21世紀のベスト100アルバム」で68位に選出され、PitchforkやPaste の「2000年代ベストアルバム」にランクインし続けています。
「売れなかったのに残った」という意味では、このアルバムと同じ時期にリリースされたどんな作品よりも長く聴き続けられています。
このアルバムを作っていた人間たちはほとんど正気を失っていた——ギタリストのAaron Dessner はそう振り返っています。
制作背景
前作『Alligator』の成功後、バンドは130本超えのツアーに出ました。帰ってきたとき、誰も曲が書けなかった。Dessner はこう語っています。「曲が一曲もなかった。ツアーがどれほど消耗するか、誰も想像していなかった」と。
コネチカット州のスタジオに移って毎日録音を続けましたが、9月末になっても録音予算の70%以上を使い切ったのにアルバムの半分もなかった。バンドは Brooklyn の自宅に撤退し、友人の Thomas Bartlett(Doveman)、Padma Newsome(Clogs)、そして Sufjan Stevens を呼び、ホーンとストリングスのアレンジを重ねていきました。
「Squalor Victoria」は最後の夜まで歌詞がなかった——マスタリングの前夜に Berninger が書き上げた曲です。アルバムのジャケットは、教会の結婚式で Interpol の Paul Banks の当時の彼女が何気なく撮った写真です。Scott Devendorf が冗談でジャケット案として提案したら、そのまま採用されました。
クラシック音楽の訓練が「インディーロック」に宿る
このアルバムを理解する上で欠かせないのが、Bryce Dessner と Aaron Dessner というツインギタリストの背景です。Bryce はイェール大学音楽大学院でクラシックギターと作曲の修士号を取得し、卒業後は Steve Reich、Philip Glass といった現代音楽の作曲家と共同作業を続けてきました。
Bang on a Can All-Stars でも演奏し、Kronos Quartet に弦楽四重奏を書いている——それと「まったく同じ音楽家」が The National のギターを弾いています。Bryce はこう語っています。「私はどちらの場でも同じ音楽家だ。制約が違う、でも私は同じだ」と。
この二人が書いた歌詞のないデモを Matt Berninger に渡し、Berninger がメロディーとフレーズを見つけていく——それが The National の作曲プロセスです。「現代音楽の訓練を受けた作曲家がインディーロックの形式で書いた曲」を、Berninger の言語で歌ったものです。
和声とドラム、そしてボーカル
The National の音楽を「地味」「変化が少ない」と感じる人がいるのはわかります。実際、このアルバムの多くの曲で和声の動きは最小限です。Bryce が「Fake Empire」について語った言葉がその本質を突いています。「ハーモニーとピアノの弾き方は信じられないほどシンプルだ——ほとんど『Chopsticks(ねこふんじゃった)』のようにシンプルだ。でもそこに本当に奇妙なリズムがある」と。
そして、このアルバムの緊張感は「和声の静止」と「リズムの性急さ」の衝突から生まれています。コードが変わらないのに、Bryan Devendorf のドラムは動き続ける——シンコペートされたトムのフレーズ、4拍目への前のめりな加速、シンバルを極力使わない「密度の高さ」。
シンバルが少ないということは、音楽が「広がらない」ということ——その圧縮された空間の中でトムとスネアが前へ前へと押し続けます。その対位が、「穏やかなのに焦燥感がある」というこのバンドの独特の感情を生んでいます。
そしてもちろん、Matt Berninger のボーカルも外せない。
バリトンの低音域をほぼ動かさず、感情の振れ幅を最小限に抑えた歌い方——一見すると「抑制的すぎる」と感じるかもしれない。しかしその抑制こそが、このバンドの音楽に独特の引力を生んでいます。
叫ばない。崩れない。ただ、淡々と言葉を置いていく。それが Dessner 兄弟の「動かない和声」と「性急なドラム」の上に乗ったとき、不思議な緊張感が生まれます。感情を抑えているのか、感情がないのか、最後まで判断がつかない——その曖昧さが、聴き手自身の感情を引き出す余白になっています。
同じ声が、曲ごとにまったく別の温度を持って届いてくる。
楽曲解説
Fake Empire
C メジャー、C – F – G – Am という進行。Bryce はこう説明しています。「概念的に、4対3のポリリズムに基づいた曲を書きたいと思った。面白いのは、曲が4拍子に聴こえるが、実際には3拍子だということだ」と。
右手が4/4拍子で動き、左手が3/4拍子で動く——「4」と「3」が同時に鳴っています。12拍のサイクルで一致するまで、両手はすれ違い続ける。これは Steve Reich のフェイズ・ミニマリズムに直接つながる技法です。
「ハーモニーとリズムが反比例している」——和声が単純なほどリズムが複雑で、その落差が緊張を生む。このアルバム全体を支配する美学が、この一曲の設計に凝縮されています。Berninger はこの曲が「半分目覚めたまま偽りの帝国にいる」——ブッシュ政権末期のアメリカと個人の疲弊を同時に指すフレーズから生まれたと語っています。
Mistaken for Strangers
このアルバムで最もロック色が強い一曲です。E マイナーを軸に、Devendorf のドラムがシンバルをより多用しながら前進します。Berninger はこの曲を「弟の Tom について書いた」と語ったことがあります。
後に Tom Berninger がバンドのツアーに同行したドキュメンタリー映画「Mistaken for Strangers」(2013年)でその関係が映像になりました。曲の後半でホーンが重なり、Dessner 兄弟がオーケストレーターとしての顔を出す瞬間がここにあります。
Squalor Victoria
E メジャーを基調に、Bryan Devendorf のドラムがこのアルバムで最も「性急」に機能する曲です。ドローンするバイオリンとロックステップのピアノグルーヴという和声的な静止の上を、ビートが疾走する。
和声が止まれば止まるほど、ドラムの前進が際立ちます。マスタリング前夜まで歌詞がなかったという事実を知ってから聴くと、そのリアルな投げ出し感が伝わってきます。
Slow Show
アコーディオンとピアノが漂う4分8秒。I – IV – V – vi という穏やかな循環で、このアルバムで最も「動かない」進行を持つ曲の一つです。しかし Devendorf のダブルバスドラムが、静謐な和声の下で脈打っています。
「You know I dreamed about you for 29 years before I saw you」——「あなたに会う前の29年間、あなたの夢を見ていた」——という一節の「長い時間を経た切実さ」を、その「上の静けさ」と「下の拍動」の組み合わせが音楽的に支えています。Berninger のバリトンが最も「演じていない」状態で聴こえる曲でもあります。
Apartment Story
G メジャーを基調に、「Stay inside till someone finds us(誰かが見つけるまで家にいよう)」という新しい恋の密閉感を描いた曲です。「So worry not, all things are well, we’ll be alright」そう歌いながら「なぜ大丈夫なのか?私たちにはルックスと香水があるから」と続く皮肉。
和声は穏やかなメジャー進行なのに、ドラムが駆け抜ける。前向きな言葉を性急なリズムが裏切る——この構造がこのバンドの歌詞的な美学の縮図です。
Gospel
アルバムのクローザーです。A メジャーを軸に、ホーンが積み重なりながら最後に「I’m so sorry for everything」——「すべてのことに、本当にごめんなさい」——という Berninger の独白で終わります。
マスタリング前夜まで言葉がなかったアルバムが、「sorry for everything」という言葉で終わるのは、Berninger の自嘲とも取れるし、作品への誠実さとも取れます。
まとめ
Aaron Dessner はこう語っています。「良いことは、オリジナルのアイデアがすべてインスパイアされたアイデアだったことだ。基盤はすべて良かった。でも何かが足りなかった」と。その「足りなかった何か」を補ったのが、Brooklyn の自宅スタジオでの再録音であり、Sufjan Stevens の参加であり、マスタリング前夜の Berninger の歌詞でした。
The National は過小評価されている、と言い切っていいと思います。Steve Reich や Philip Glass と共同作業する現代音楽の作曲家が、4対3のポリリズムを用いたインディーロックを書いている——その事実を知っている人は、まだあまり多くありません。この記事を読んでくださった方には、ぜひじっくりと向かい合って欲しいアーティストです。