Radiohead の『OK Computer』は、1997年にリリースされた3枚目のアルバムです。メンバーは Thom Yorke(ボーカル・ギター)、Jonny Greenwood(ギター・キーボード)、Ed O’Brien(ギター)、Colin Greenwood(ベース)、Phil Selway(ドラム)。プロデュースは Nigel Godrich とバンド自身、全12曲収録です。
リリース時に UK チャート1位を記録し、グラミー賞 Best Alternative Music Album を受賞しました。Rolling Stone の2020年版「500選」では23位。批評家から「ロックの死と再生」「時代の予言書」と呼ばれ続けていますが、わたしにはその言い方がいつも少しズレているように感じます。
このアルバムが今も届くのは、未来を当てたからじゃなく、1990年代後半にすでにあった感覚の揺らぎを、ここまで正確に音にしたからだと思っています。
制作背景
制作のきっかけは1995年のチャリティ・コンピレーション用に Godrich と録音した「Lucky」でした。Yorke はこの曲について「これが次のアルバムでやりたいことを示していた」と語っており、Godrich も「何かを最速でやるとき、失うものがない——あのセッションは本当に鼓舞されるものだった」と振り返っています。
本録音は Oxfordshire の自前スタジオで始まりましたが、バンドは環境に満足できず、バース近郊の屋敷 St. Catherine’s Court に移りました。当時そこは女優の Jane Seymour が所有する邸宅で、彼女の不在中に借り受けたものです。
Jonny Greenwood は「研究室みたいなスタジオとは全然違う」と語り、Yorke は「あの建物には信じられないほど固有の音響があった」と言っています。石造りの階段、広いホール、バルコニー——建物の響きそのものが録音に染み込んでいます。「Exit Music (for a Film)」のボーカルは、その石造りの階段で録音されました。
サウンドの出発点として Yorke が挙げたのは Miles Davis の『Bitches Brew』(1970年)です。「積み上げて、崩れていくのを見る——それが私たちが OK Computer でやろうとしていたことの核だった」と語っています。
タイトルは Douglas Adams の『銀河ヒッチハイク・ガイド』の一節から取られました。銀河の果てのレストランで宇宙船のコンピューターが言う台詞です。
音楽性
前作『The Bends』はギター・バンドとしての Radiohead の到達点でした。『OK Computer』はそこから意図的に離れています。ギターはより抑制的な役割を担い、ノイズ、弦楽、電子音が同等の比重で音楽を動かす。
Ennio Morricone のサウンドトラック、Can のクラウト・ロック、PJ Harvey——Yorke が「録音プロセスを乱用していた人々」と表現した音楽家たちから引き継いだ発想が、このアルバムの音の作り方を決定しています。
アルバム全体を通じて漂うのは、「現代の快適さの中にある根拠のない不安」とでも言うべき空気です。「Airbag」の生還の高揚から始まり、「Paranoid Android」の感情の暴走、「Fitter Happier」の無機質さ、「Karma Police」の崩壊、「No Surprises」の麻痺した幸福感を経て、「The Tourist」の消耗した静寂へと向かう。その流れはロード・ムービーのようで、旅の終わりに残るのは解放感ではなく、疲労と、それでも続いていく日常です。
ミックスは音を鮮明に分離するのではなく、意図的に溶け合わせています。何層もの音が膜として重なり、ヘッドフォンで聴くと空間そのものが揺れる感覚があります。「Airbag」の潰れたドラム・ループ、「Let Down」のきらめくアルペジオ、「Climbing Up the Walls」の不穏な弦——音が建物の中を歩いているような感触はここから来ています。
Selway のドラムは生演奏でありながら、サンプリングで組み替えたような機械的な呼吸を持っています。その「ヨレと粘り」がアルバムのグルーヴの正体で、完璧に揃わないことで音楽全体が呼吸している。
楽曲解説
Airbag
アルバムの幕開けです。Selway の演奏をサンプリングのように組み替えたドラム・ループと、切り裂くようなギターの断面が共存します。Godrich によればこのドラム・パートのプログラミングに Yorke と Selway が「1日半」かけたそうです。ベースが少し遅れて入ることで、全体のグルーヴをねじらせています。
和声は C#m を中心に動き、Fmaj7 や G#m といったコードが浮遊感を作ります。解決しないまま次のフレーズへ移行するこの不安定な進行が、「生還した後の現実の違和感」という歌詞のテーマとそのまま重なっています。「I am born again」——「わたしは生まれ変わった」——という一節が、現実に戻ってきた感触として機能しています。
Paranoid Android
静けさ、混沌、祈りの三部構成です。各パートは数ヶ月離れて別々に録音され、Godrich がテープ編集した複雑な繋ぎ合わせで一曲になっています。タイトルは Douglas Adams の『銀河ヒッチハイク・ガイド』に登場するうつ病のロボット「マーヴィン」の別名で、Yorke は「それが人々が自分に求めているものだ」と語っています。
第1部は Cm を基調とする比較的静かな進行です。第2部は 7/8 拍子のリフが感情の歪みとして乱入し、Cm から E♭m、Fm へと暗転していく——機能和声を無視した平行移動で、論理ではなく感情が音を動かしている感触があります。第3部は Cm から B♭ への転調で「祈り」の色彩に変わります。
3つの断片が縫い合わさる瞬間——2分45秒あたりで静寂が訪れ、ギターが戻ってくる入り口——がこのアルバムで最も息を呑む瞬間のひとつです。
Subterranean Homesick Alien
Jonny Greenwood が Miles Davis の『Bitches Brew』を直接の参照点として書いた曲です。「巨大な空間を積み上げて、崩れていくのを見る」という発想がそのまま音になっています。ギターのコーラスとディレイが電波のように波打ち、ボーカルがリズムの外側を漂う。深夜の高速道路を走る映像が浮かぶ曲です。
和声は A メジャーを基軸に、E – D – A という進行が繰り返されますが、上に重なるコーラス処理されたギターが常に別の調性の気配を漂わせています。「着地する場所が確定しない」感覚はこの二層構造から来ています。タイトルは Bob Dylan の「Subterranean Homesick Blues」への参照で、「宇宙人に連れ去られたい」という孤独の比喩として機能しています。
Exit Music (for a Film)
映画『ロミオ+ジュリエット』(1996年)のためにバズ・ラーマン監督の依頼で書かれた曲です。Yorke のボーカルはマンションの石造りの階段で録音されており、その空間の反響が曲に異様な広がりを与えています。
Bm から始まりゆっくりと D へ向かうこの進行は、「逃げようとしているが引き戻される」感触を和声で作っています。アコースティック・ギターの弾き語りとして始まり、後半でミュート・ギターとウーリッツァーの洪水に飲まれる構成です。
「Breathe, keep breathing / Don’t lose your nerve」——「息をして、呼吸し続けて、怯まないで」——この一節が、アルバム全体を通して Radiohead が言い続けていることのように聴こえます。
Let Down
穏やかなコード進行なのに、アルペジオが拍をすり抜け続けます。地面が少しずつ浮いているような感覚。ギターとシンセが空気中で混ざり合い、Yorke の声が希望と諦めの中間をすり抜けていく。
コード進行は E – A – B – C#m の繰り返しですが、複数のギターが異なるタイミングでアルペジオを重ねているため、拍の感覚が常に揺らぎます。これはヘミオラ——同じ拍子の上で異なる長さのフレーズを重ねる技法——に近い効果で、「穏やかなのにどこか落ち着かない」という感触の正体です。ラストでアルペジオが増幅されていく瞬間、何度聴いても胸に来ます。
Karma Police
タイトルはツアー中のバンド内の合言葉から来ています。Jonny Greenwood は「誰かがひどい振る舞いをするとき、俺たちは『カルマ警察がそのうちとっ捕まえてくれる』と言ってた」と語っています。
コード進行は Beatles の「Sexy Sadie」に近い A – G – D – E という構造を持ち、「A メジャーなのに E がメジャーではなく機能的に不安定」な感触が低音の沈下感を作ります。2分34秒から始まる「For a minute there, I lost myself」のセクションは A♭ への転調で、そこから Godrich がギターの出力をディレイに通して切った音で締まる——演奏ではなく、機材を切る行為そのものが音になっています。
Fitter Happier
Mac のテキスト読み上げアプリに搭載された合成音声「Fred」が、現代人の自己啓発リストを無表情に読み上げる曲です。Yorke はスランプ中に言葉のリストしか書けなかった時期があり、「精神的なノイズが前に出てきた日に書いた」と語っています。「抜け出せずにいたので、10分で一気にタイプした。あの中立的な機械の声に歌詞を渡すことが、解放感をもたらした」と。
Colin Greenwood は「あの声にこれほど感情があるとは不思議だ」と語り、Yorke も「あの声は最近聴いた中で最も感情的な声だ」と同意しました。肉声では耐えられないほど痛切な内容を、機械に語らせることで成立しているんです。崩れたピアノの断片が背後で鳴り続け、和声は解決せず、終始浮遊したまま終わります。
Electioneering
アルバムの中で最もストレートなロックの曲です。Godrich 自身が「このアルバムのアナクロニズム——少し大げさになりすぎた」と語っており、他の曲と比べると意図的な荒削りさが目立ちます。
E – A – D という基本的なブルース進行を軸に、Jonny Greenwood のギターが刻みます。前後の静謐な曲たちの間で、社会への怒りが突然ぶちまけられる——そのコントラストがアルバムの「感情の乱高下」を担っています。
Climbing Up the Walls
このアルバムで最も不穏な曲です。ボーカルはフォルティッシモとピアニッシモの間を激しく行き来し、弦楽が不協和に積み上がっていく。クレッシェンドの頂点で弦が一斉に異なる方向へ崩れていく——その瞬間が、一度聴いたら忘れられない。
Em から始まる進行は、弦楽アレンジが加わると半音の不協和音程——長7度や短2度——が重なり、解決を拒み続けます。3分過ぎで弦が一斉に叫び、そのまま崩れる瞬間が和声的な「爆発」として機能しています。歌詞は精神的な崩壊を内側から描いており、Yorke はこの曲について「精神病院で働いていた人間のことを書いた」と語っています。
No Surprises
子守唄のような曲なのに、幸福感が不自然すぎて怖い。グロッケンシュピールの音が優しすぎて、逆に胸が苦しくなる。このアルバムで最も「穏やかな恐怖」を感じる曲です。
F – B♭ – C という明快な長調の進行が、歌詞の「幸せを装った絶望」と正面からぶつかっています。その落差こそがこの曲の不穏さの正体です。Yorke が「Marvin Gaye の “What’s Going On” みたいに聴こえてほしかった——でも歌詞の内容は毒と廃棄物で汚染された話だ」と語ったのも、この落差を意図的に設計したからでしょう。6テイク録りましたが、使われたのは最初のテイクでした。
Lucky
このアルバムの制作の発端になった曲です。1995年に5時間で録音されたこの曲を、Yorke は「これが次のアルバムでやりたいことを示していた」と語りました。
E – A – B という開放的な進行が、スロー・モーションの空間の広がりと組み合わさって、「崩壊の直前にある高揚感」という感触を作っています。「I’m on a roll, I’m on a roll / This time I feel my luck could change」——「絶好調だ、今度こそ流れが変わる気がする」——この一節は、アルバム全体を通じてどこかに向かおうとしながらも着地できずにいた感情が、唯一「前に進めそう」と感じる瞬間です。
The Tourist
ゆっくりと時間がほどけていく、アルバムの締めくくりです。O’Brien が書いた唯一の曲で、旅の疲れと速度への嫌悪から生まれました。ドラムの間が広くて、一打ごとに世界が静まっていきます。
A メジャーの穏やかな進行が最後まで解決に向かいます。このアルバムで唯一、不安なく着地する和声の曲です。「Hey man, slow down」——「ねえ、もう少しゆっくりしようよ」——というフレーズが繰り返される。ツアーで狂奔していたバンドが自分自身に言い聞かせているように聴こえます。
1997年のツアーを終えた Yorke は「あのツアーは1年長すぎた。最終的に誰も口をきかなくなった」と語っています。最後の鐘の音が鳴り止んだ後の余白で、アルバム全体がようやく息をつく。
まとめ
このアルバムの内容が「予言的」と呼ばれるのはわかります。でもわたしには、このアルバムは未来を当てたのではなく、1996〜97年という瞬間にすでに存在していた不安の質感を、ここまで正確に記録したものだと思っています。
リリースから25年以上が経ちました。ロックというジャンルが縮小し、ストリーミングが音楽の聴き方を変え、世界はあの頃よりさらに速くなった。それでも『OK Computer』は古くならない。感情を記録しているからです。
技術でも時代でもなく、人間が「現代」の中で感じた疲労と美しさと孤独を、ここまで正確に封じ込めたアルバムは他にない。ロック史においてこのアルバムが持つ場所は、議論の余地がありません。

