2022年、Ninja TuneからリリースされたBlack Country, New Roadのセカンド・スタジオアルバム『Ants From Up There』。
UKアルバムチャートで初登場3位という快挙を成し遂げた本作は、同時にフロントマンであるIsaac Woodが刻んだ最後の足跡でもあります。
アルバムのリリースをわずか4日後に控えたタイミングで、Isaac Woodは突如として脱退を表明しました。理由はメンタルヘルスの問題。
バンドとの関係は良好であることを強調しながらも、予定されていたツアーはすべて白紙に。残されたメンバーたちは「Isaac Woodと共に作り上げた楽曲は、今後二度と演奏しない」と声明を出しました。
リスナーは、届けられたばかりの完成した作品を手にしながら、図らずも「別れ」を同時に受け取ることになった——そんな数奇な経緯を持つアルバムです。
制作背景
楽曲たちはCOVID-19によるロックダウン下で産声を上げ、2021年夏のツアーで路上初披露されながら、徐々にその形を整えていきました。
Charlie Wayneは当時のツアーについて「曲をライブで試し、観客の前でどう機能するかを確かめる必要があった」と振り返っています。
レコーディングの舞台となったのは、ワイト島にあるChale Abbey Studios。約3週間をかけて録音されました。
プロデューサーに起用されたのは、バンドのライブサウンドエンジニアを務めてきたSergio Maschetzko。彼にとってアルバム制作は初めての経験でしたが、バンドが彼を選んだ理由はシンプルでした。「自分たちのライブサウンドを、そのまま録音に持ち込みたかった」から。
Tyler Hydeは当時の高揚感をこう回想しています。「ずっと興奮しっぱなしだった。これほど楽しい制作は初めて。これが自分の人生で関わる最高の作品になるかもしれないと思ったし、それでいい、とさえ感じていた」と。
12分に及ぶ大曲「Basketball Shoes」は、バンドの中で最も古い楽曲のひとつ。Tyler Hydeによれば、アルバムの楽曲は本質的にこの曲から「生まれた」と語っています。
Frank Oceanの「White Ferrari」からインスピレーションを受けたという「Concorde」とともに、アルバムの巨大な両極を担っています。
音楽性
本作の音楽性は、前作『For the First Time』で見せたクレズマー、ポストロック、スポークンワードの融合をさらに深化させ、より叙情的かつオーケストラ的な方向へと振り切ったものです。
影響源として、SlintやShellac直系のポストロック、Steve Reichのミニマリズム、Ornette Colemanのフリージャズといった名が挙がります。Georgia ElleryとLewis Evansはクレズマーの正式な教育を受けており、その即興性がサウンドに唯一無二の質感を与えています。
Isaac Wood自身が「Arcade Fireのアルバムを一番多く持っている」と語る通り、あの壮大な叙情性への愛情が本作に直接反映されています。
Charlie Wayneはこのアルバムの制作において、Frank OceanとBillie Eilishの名前を影響源として挙げました。Isaac Woodのボーカルスタイルは、しばしばSlintのBrian McMahanやThe FallのMark E. Smithと比較されますが、歌詞の面ではFather John Mistyからの影響を本人が認めています。
日常の些細なディテールや固有名詞を歌詞に忍ばせ、そこから普遍的な感情を引き出す手法——それはまさに、このバンドにしか成し得ない表現です。
和声的には、このアルバムは「調性の安定と崩壊の繰り返し」が特徴です。
「Chaos Space Marine」と「Concorde」はともにAメジャーを基調としていますが、その使い方は対照的だ。「Chaos Space Marine」は162bpmの高速でAメジャーのI・IV・V進行を疾走させ、調性を安定の足場として使う。
対して「Concorde」は129bpmで同じAメジャーの進行を全編通して「維持し続ける」——動かないことで浮遊感を作り出す。同じ調でまったく逆の感情が生まれるのが、このバンドの和声的な面白さです。
Lewis Evansのサックス、Georgia Elleryのバイオリン、May Kershawのキーボード、Luke Markのギター、Tyler Hydeのベース、Charlie Wayneのドラム、そしてIsaac Woodのギターとボーカル。
7人全員が作編曲に関与するこのバンドの音像は、既存のジャンルの棚に収まることを拒絶しています。
楽曲解説
Chaos Space Marine
Isaac Wood自身が「自分たちが書いた中で最高の曲だ」と語った2曲目。
Aメジャー・162bpmで、バイオリン、ピアノ、サックスが絡み合いながら疾走します。I・IV・V(A・D・E)というシンプルな進行を高速で回転させることで、「バロック的な跳ね感」と「ポストロックの推進力」が同時に立ち上がる。
アルバムの中で最もエネルギッシュで、かつ親しみやすい。ライブでのファンの反応を見ながら育て上げた曲だけあって、演奏のたびにその形を変えていったといいます。
Concorde
Frank Oceanの「White Ferrari」にインスパイアされた一曲。
Aメジャーを基調に、「同じコード進行を全編通して維持する」(Charlie Wayne)という構造を持ちます。進行が動かないからこそ、バイオリンとボーカルの微細な感情の変化がそのまま浮かび上がってくる。
「Chaos Space Marine」と同じ調でありながら、全く異なる感情の温度を持つのはこのためです。Isaac Woodの声が最も穏やかに、そして切実に響く。
静かに始まり、静かに終わる。その余韻はどこまでも長く尾を引きます。
Bread Song
Eメジャー・96bpm。日常のささやかな断片を歌詞に綴り、そこから普遍的な感情を引き出す手法が最も鮮明に現れた一曲です。
メジャーキーの明るさが、歌詞の切実さとわずかにずれて共存しているような感覚がある。Clash誌はこの曲が持つ「叙情的な豊かさ」を特に称賛しました。
The Place Where He Inserted the Blade
タイトルだけで息を呑む。アルバムの中で最も暗く、張り詰めた緊張感が持続する一曲です。
Charlie Wayneはこの曲について「非常に温かく豊かで、アップリフティング」と語っていますが、それはコードの「温かさ」と歌詞の「暗さ」が交差することで生まれる複雑な感情です。
アルバムを通して積み上げられてきた叙情性が、ここで一気に引き絞られます。
Basketball Shoes
12分に及ぶクローザー。Tyler Hydeが「アルバム全体のメドレーだ」と語った通り、「Concorde」「Snow Globes」「Intro」といったアルバム各所のライトモチーフを回帰させながら、三幕構造でドラマチックに展開します。
繊細な独白から、攻撃的なエモへ。最終的にサックス、バイオリン、ボーカルが一体となって爆発する終盤は、アルバム全体の感情を一点に集約していきます。
これが最後の一曲だと知って聴くと、その幕引きはどうしようもなく切ない。
まとめ
Isaac Woodの歌詞の文脈を掴むのは容易ではありません。しかし、繰り返し聴くうちに、「わからなくても伝わってくるもの」の存在に気づきました。
音そのものが、ダイレクトに感情を運んでくるのです。歌詞の意味を追わずとも、「Concorde」のバイオリンが鳴り響く瞬間に、胸を突かれる何かがある。そういうアルバムです。
リリース4日前の脱退発表を受けて、残されたメンバーたちはIsaac Woodの楽曲を演奏しないことを選びました。
つまり、このアルバムの曲たちがライブで鳴らされることはもうありません。この音源だけが、当時の空気を止めたまま残されている。その事実が、本作をどこか「封印された時間」のように感じさせるのです。

