1991年に放たれたTalk Talkの5枚目にして最終作『Laughing Stock』。
全英チャート26位という記録以上に、本作は「ポストロック」という概念が確立される以前にその核心を定義してしまった作品として、今や音楽史における聖典のごとき再評価を確立しています。
制作背景
録音は1990年9月から翌年4月にかけて、ロンドンのWessex Sound Studiosで行われました。プロデューサーにTim Friese-Greene、エンジニアにPhill Brownを迎え、約50名ものミュージシャンがセッションに招集されましたが、最終的にアルバムにその痕跡を留めたのはわずか18名分でした。
その制作風景は、異様の一言に尽きます。
スタジオの照明はすべて落とされ、完全な暗闇の中でセッションは行われました。ミュージシャンたちの多くは事前に楽譜を渡されることなく、その場で初めて聴かされた音に対して「一度きりの反応」を返すよう求められたのです。
Talk Talkの中心人物マーク・ホリスが望んだのは、熟練した演奏ではなく、未知の音に触れた瞬間の生々しい反応でした。
ホリスの徹底した美学を象徴するエピソードがあります。彼は25人のコーラス隊を呼び寄せ、丸一日かけて録音を行いました。しかし翌日、彼はそのテープをすべて消去したのです。
理由は「完璧すぎたから」。彼が求めたのは、予定調和の美しさではなく「不完全な一回性」でした。そのストイックな姿勢こそが、本作の血肉となっているのです。
このアルバムを完成させた後、ホリスは音楽業界から事実上の引退を表明します。1998年に唯一のソロアルバム『Mark Hollis』を発表した後は公の場から姿を消し、2019年2月、64歳でこの世を去るまで、Talk Talkの再結成が叶うことは二度とありませんでした。
音楽性
本作はしばしば「ポストロックの原典」と称されますが、それはあくまで後世のラベルに過ぎません。
その深淵には、晩年のマイルス・デイヴィスが到達したジャズの地平、モートン・フェルドマンやジョン・ケージのアヴァンギャルド、ECMレーベルが提示した「静寂を奏でる」北欧ジャズ、そしてデューク・エリントンの緻密な編曲術が溶け合っています。
前作の延長線上にありながら、本作はより暗く、より峻厳。ここにおいて「ロック」の意匠はほぼ完全に剥ぎ取られています。
本作の真の主役は、音ではなく「沈黙」です。
音符と音符の間に意図的に配置された空白が、鳴らされている音と同じ、あるいはそれ以上の重みを持って迫ってきます。ホリスがかつて遺した「音楽を学びたいなら、まず沈黙を学ぶべきだ」という言葉を、これほど純粋に結晶化させた作品は他にないでしょう。
音楽評論家のサイモン・レイノルズは、本作をポストロックの出発点と位置づけ、その後のSlintやTortoise、Bark Psychosisへの決定的な影響を指摘しました。
しかし、ホリス自身はジャンルの境界線など露ほども関心がなかった。その徹底した無関心こそが、この音楽をあらゆる枠組みから解き放ち、永遠の自由を与えているのです。
楽曲解説
Myrrhman
アルバムの幕開けを告げる7分38秒。ギターのハーモニクスとオルガンの低音が交互に浮上し、ホリスの囁きが空間に溶け込みます。
最初の音が鳴った瞬間、リスナーは自分が知っている「ロック」という概念が通用しない場所へ連れて行かれたことを痛感します。
Ascension Day
アルバム中で最も「動」に振れた一曲。リー・ハリスのドラムが激しくのたうち回り、終盤に向かってホリスの歌声が悲痛な叫びへと変わっていく。
静寂を基調とする本作における唯一の「感情の爆発」です。その瞬間に至るまでの緊張感は、息を呑むほどに鋭利。
After the Flood
9分46秒に及ぶ、本作で最もジャズ的な質感を持つトラック。
ヘンリー・ロウザーのトランペットとチェロが対話を重ね、ホリスのボーカルはもはやひとつの楽器としてアンサンブルに埋没していきます。静寂と実音が完全に対等な立場にあり、時間の感覚が麻痺していくような感覚に陥ります。
Taphead
繊細なギターと、どこか確信を持てない揺らぎを孕んだボーカルから始まる4曲目。やがてヘンリー・ロウザーによるトランペットが一音ずつ積み重なり、荘厳なハーモニーを形成していきます。
静寂と音の配置において、最も緻密な計算と直感が同居した名曲です。
New Grass
本作で最も「歌」としての体裁を保っている、慈愛に満ちた一曲。
繰り返されるギターフレーズにオルガンとパーカッションが静かに重なり、緩やかに膨らんでいく。終盤、静寂の中にホリスの声だけが残る瞬間。そこには、このアルバムが到達した最も美しい光景が広がっています。
Runeii
4分58秒のクローザー。ほとんどが静寂によって構成されたこの曲は、Talk Talkの、そしてマーク・ホリスが音楽界に遺した最後のメッセージとなりました。
言葉を紡ごうとして、途切れ、そのまま消えていく。タイトルの『Laughing Stock(笑いもの)』という皮肉めいた響きが、このあまりにも静かな幕引きの中で深い余韻を残します。
まとめ
「まず沈黙を学べ」。ホリスのその言葉は、本作の制作手法であると同時に、私たちリスナーへの問いかけでもあります。
静寂に耳を澄ます姿勢を持たなければ、このアルバムは何も語りかけてはくれません。しかし、一度その波長が合ったとき、この削ぎ落とされた音たちがどれほど饒舌に、深く響くかに驚かされるはずです。
2019年に彼がこの世を去った際、世界中のメディアが本作を改めて「最高傑作」と称えたのは、至極当然の帰結だったと言えるでしょう。

