Isis の『Panopticon』(2004年)は、59分かけて聴き手を監視されているような感覚に追い込む。そのくせ、気づいたときには心地よく溺れている。
ポストメタルというジャンルを定義した作品のひとつとして広く認識されているが、何度聴き返しても驚くのは、これほど複雑な音楽が「難解に聴こえない」という事実だ。
メンバーは Aaron Turner(ボーカル、ギター)、Michael Gallagher(ギター)、Bryant Clifford Meyer(ギター、エレクトロニクス)、Jeff Caxide(ベース)、Aaron Harris(ドラム)。ボストンで結成され、録音時にはロサンゼルスへ移転していた5人組だ。
制作背景
アルバムの書き下ろしは2003年9月に始まった。ギタリストの Gallagher は当時の制作プロセスをこう語っている。「個人で、あるいはペアで、または全員で、アイデアを形にしていった。全員が満足できる曲になるまで、ずっとそれを続けた」と。
Caxide はこのアルバムの書き方が前作までと根本的に違ったと証言している。「全員がたくさん書いた。一人のクレジットで語れる曲は一曲もない」。Turner も「アンビエントな空間をもっと探求したかった。そういうものは、自然と長い構造を要求する。意識的な判断じゃない。私たちが書くスタイルの性質としてそうなった」と説明する。
ゲスト・ミュージシャンとして Tool のベーシスト Justin Chancellor を呼んだ。Turner はその理由をこう話している。「互いに尊敬し合っているバンドのメンバーで、私たちのやっていることを理解して、私たちが目指すものに集中できる人間だと感じた。それに彼自身の音楽的個性の面白い側面が、私たちのスタイルとうまく溶け合うと思った」と。Chancellor が参加した曲は「Altered Course」だ。
リリース後にスタジオへ戻ったとき、マスター・テープの半分が紛失していた——おそらく盗難。この話を知ると、現存する音源がより貴重なものに聴こえる。
音楽性
『Panopticon』はポストメタルの中心的な作品として語られることが多い。スラッジ・メタルの重さとポストロックの空気感を組み合わせ、静から動へ、動から静へと波のように展開する。その構造自体は前作『Oceanic』でも確立されていたが、このアルバムがひとつ上の高みに到達しているのは「変拍子の使い方」にある。
変拍子というと、テクニカル・メタルの文脈——複雑さをあえて聴かせるための演奏——を想像する人が多い。Isis の変拍子は、その真逆だ。楽曲のうねりや緊張感を生む「呼吸」として、ごく自然に、時には執拗に組み込まれている。
「So Did We」の冒頭が典型だ。Harris のドラムが刻むパターンは、4拍子を期待している耳に対してわずかなズレを連続して与える。しかしそのズレはリフの音節の動きとぴったり噛み合っていて、「数えてみると変だが、体で聴くと正しい」という状態になっている。
「Grinning Mouths」ではこれがさらに顕著だ。主リフが繰り返されるたびに「終わったと思ったところで終わらない」感覚がある。リフの音符の数が4拍子の枠と微妙にずれているため、小節の境界が意識から消える。8分以上の曲を「気づいたら終わっていた」と感じさせるのは、このズレの蓄積が作り出すトランス状態だ。
5拍子や7拍子が繰り返されても、意識して数えようとしない限り、複雑さとして聴こえない。拍子の切り替えが、メロディの自然な抑揚に従っているからだ。変拍子の存在を「聴かせる」ための演奏とは根本的に違う——Isis の変拍子は、気づかれないために使われている。
リズムと並んで、アルバムのもう一本の軸は和声の「解決しなさ」だ。短調を基調とした重いリフが、着地するかと思ったところで別のコードに逸れ、落ち着かせない。その「届かなさ」が、長尺の曲を最後まで聴かせる牽引力になっている。
Meyer のエレクトロニクスとレイヤード・ギターは、アルバム全体に靄のような空気感を与えている。重く歪んだリフの上に浮遊するテクスチャーが重なる。Turner のボーカルはこの作品でかなり変容していて、前作のグロウルが残りつつクリーン・ボイスの比率が上がった。声はもう一本の楽器として扱われていて、ミックスの中に埋もれていることも珍しくない。
前作『Oceanic』と比べると、サウンドの方向性は明確に変わった。『Oceanic』がオーガニックで感情的な質感を持っていたのに対し、『Panopticon』はより都市的で、機械的な緊張感がある。アルバムのコンセプト「監視社会」と音のテクスチャーが連動している。
楽曲解説
So Did We
アルバムの一曲目で、最初の10秒で掴まれるか否かが決まる曲だ。歪んだギターのリフが唐突に始まり、Harris のドラムが加わった瞬間に「これはただのスラッジ・メタルではない」とわかる。
変拍子が最も直接的に体感できるのはこの曲の冒頭部分で、4拍子を期待している耳に対してわずかなズレが連続する。しかしその違和感は曲が進むにつれて「正しい感覚」に入れ替わる。
聴き手の拍子感覚が曲に合わせてチューニングされていく——これが Isis の変拍子の本質だ。
3分半を過ぎたあたりでリフが薄れ、Meyer のテクスチャーだけが残る場面がある。その静寂は30秒ほどしか続かないが、そこから再びリフが戻ってきたときの圧力は倍加して聴こえる。
歌詞は監視社会のテーマを間接的に扱っていて、「皮膚が薄くなり、骨が露わになる」という身体的なイメージで人間が透明化されていく感覚を描く。Turner のグロウルは歌詞の意味を伝えるというより、楽器の一部として響いている。
Backlit
アルバムの中で Foucault の『監獄の誕生』に最も直接的に結びついた曲だ。「Always object, never subject(常に客体、決して主体ではない)」「the gaze never ceases(光は決して止まない)」という一節は、パノプティコンにさらされた個人の経験をそのまま言葉にしたものだ。
音楽的には、静謐なアンビエントの立ち上がりから始まり、ゆっくりと圧力を積み上げていく構造を持つ。Caxide のベースがリズムの支柱として機能していて、上物のギターが自由に動けるのはこの土台があるからだ。
2分を過ぎたあたりで初めてリフが本格的に展開されるが、その「待ち時間」が緊張を最大化する。監視されているが、いつ何が起きるかわからない——パノプティコンの体験構造を音でなぞっているように聴こえる。
In Fiction
バンド初のミュージック・ビデオが制作された曲で、監督は Josh Graham が担当した。映像は若い女性がカメラから逃げ続けるストーリーで、アルバムのテーマである監視社会を直接的に映像化している。アルバム・アートワークのブルーとブラックのパレットが映像にも引き継がれていて、1962年のフランス映画『ラ・ジュテ』への意図的なオマージュだと Gallagher が認めている。
約9分の曲だが、その9分間を「長い」と感じさせない。完全に落ち切ることもなく、完全に爆発することもなく、その中間を彷徨い続ける。特に聴いてほしいのは7分過ぎで、それまで積み重ねてきた歪みがすっと引いて Meyer のエレクトロニクスだけが残る瞬間だ。数秒後にもう一度リフが戻ってくるその落差が、曲全体の締めとして機能している。
Wills Dissolve
アルバム中で最も短い曲——といっても6分47秒ある——だが、構造的に際立って異質だ。比較的落ち着いたテンポと、ほぼクリーン・ボイスに近い Turner の歌唱で進み、アルバム中盤の「息継ぎ」として機能している。
ただし終盤1分ほどで様相が変わる。それまで穏やかだったリズム・セクションが突然密度を増し、曲の性格がひっくり返る。この「最後の1分だけ別の曲になる」構造は、歌詞の「意志が溶けていく(Our wills dissolve)」というテーマと噛み合っている——ゆっくりと崩壊していくものが、最後に一気に落ちる。
「Wills Dissolve」から次の「Syndic Calls」への流れは、アルバムの中で私が最も好きな場面だ。何かが静かに崩れ落ちて、また別の何かが押し寄せてくる——そのタイミングが計算されているようで、有機的だ。
Altered Course
アルバム唯一の純粋なインストゥルメンタルで、Justin Chancellor がベースでゲスト参加している。約10分かけて、静かなアンビエント的なテクスチャーから始まり、少しずつ密度が増し、5分過ぎにリフが最高点に達する。その後また徐々にテンションが落ちていき、最終的にギターの長いサステインだけが残る——解決しないまま、ただフェードしていく。
聴きどころは冒頭4分だ。これほど静かな音楽がこれほどの緊張感を持てる、という事実に最初に出会ったときは驚いた。Chancellor のベースが Caxide と異なる質感を持っていて、それがこの曲を他の楽曲とわずかに違う響きにしている。一度気づくともう忘れられない。
まとめ
2004年当時、政府による市民監視とプライバシーの喪失をここまで音楽的に体現したアルバムはなかった。20年以上を経て、スマートフォンと SNS が当たり前になった今、このアルバムのコンセプトはさらに現実味を帯びている。Turner 自身が2014年のリイシュー時に「テーマはあの頃より今のほうが予言的に聴こえる」と語った——その言葉は正しい。
変拍子は呼吸し、和声は着地を拒み、音は靄のように積み重なる。Isis はこの一枚で、ポストメタルが何を表現できるかの天井を塗り替えた。
59分が終わる。何かに見られていたような気がするが、もう一度聴きたくなっている。
