グライムス(Grimes)の『Visions』を聴くと、2010年代の始まりの、あの何とも言えないワクワク感を思い出します。
このアルバムが出たとき、彼女はまだモントリオールのDIYシーンの「変な宅録女子」でした。
それが2012年にリリースされたこの一枚で、世界中のポップ・ミュージックのルールをひっくり返してしまった。
制作の経緯が凄まじい。レーベルから締め切りを言い渡されたGrimesは、モントリオールのアパートに3週間引きこもって録音を続けました。
窓をガムテープで遮光し、9日間にわたって眠らず食べずに作り続けた時期もあった。「本当に気が狂おうとしていた」と彼女自身が振り返っています。
「意図的に狂おうとした——それがきっと何か良いものに繋がると思って」。
使用機材はGarageBand——Macに最初から入っているあのアプリ——とローランドのJuno-Gシンセのみ。
プロデューサーなし、豪華なスタジオなし。自分の脳内のカオスを、持てる最小限のツールで形にした。
Grimesは当時「コーラスが何か、ヴァースがどうサビに繋がるかも知らなかった」と言い、作曲の知識がなかったからこそ既存の文法に縛られなかった。
音楽的ルーツ
GrimesはEnya、Aphex Twin、Outkast、TLC、Mariah Careyを影響源として挙げています。
脈絡のない並びに見えますが、共通点があります——どれも「声の質感そのものを楽器として使っている」という点です。
Enyaの多重ボーカル処理、Aphex Twinの電子音の有機的な揺れ、Mariahのメリスマ——これらをGarageBandとJuno-Gで同時に参照しようとした結果があの音です。
もう一つの重要な参照軸が12世紀の作曲家ヒルデガルト・フォン・ビンゲン(Hildegard von Bingen)です。
修道院に籠もって神と対話し続けた修道女の「遮断と創造」のプロセスを、Grimesは文字通り再現しようとした。
窓をガムテープで遮光し、9日間眠らずに制作を続けたのはその実践で、「外界から遮断された状態で生まれた音」の質感が、このアルバムに独特の密封感を与えています。
音楽理論的には「めちゃくちゃ」な部分が多いのに、全体として一貫して聴こえる——コード進行もリズムも、正式なルールを知らずに作ったからこそ、既存のポップスの文法から自由だった。その自由さがこのアルバムの最大の武器です。
楽曲解説
「Genesis」のイントロは、このアルバムの世界観を3秒で提示します。キラキラしているのにどこか不穏な、天使でもあり悪魔でもある加工された声——これはJuno-Gのシンセパッドと多重録音されたボーカルが重なることで生まれています。
一つひとつの音は単純なのに、重なりが「名前のつかない感触」を作り出している。
「Oblivion」はPitchforkが2012年のベスト・トラック1位に選んだ曲で、Grimesの実際の性暴力被害の経験から書かれました。
実際の被害の経験から書かれたにもかかわらず、曲のサウンドは軽くポップで踊れる。その落差が、聴き手に言葉にしにくい感触を残します——楽しいはずなのに何かが引っかかる、という感覚の正体がその落差です。
本当のことを歌っているから届く、ということの見本のような曲です。
「Eight」が脳にこびりつく理由は音楽理論的に説明できます。リズムが4小節で完結せずに奇数拍のところで区切られているため、「ここで終わる」という予測が常に外れ続ける。
聴き手の身体が次の拍を探し続けることで、曲に引き込まれていく——「正式なルールを知らずに作った」からこそ辿り着けた構造です。
「Symphonia IX」は突然高音のボーカルが現れて一瞬で消えていく——その「偶然の精度」がこのアルバムの魔力です。計算されていない、でも確かに機能している。この感触がアルバム全体を貫いています。
その後Grimesは2015年の『Art Angels』でよりポップなサウンドへと進み、現在は全く異なる場所にいます。
でも『Visions』は、2010年代の「ベッドルーム・プロデューサーが世界を変えられる」という時代感覚を最も純粋に体現した一枚として、今も特別な位置にある。
完璧じゃなくていい、バグだらけでいい——自分の感覚だけを信じて突き進めば、世界は変えられる。そういう勇気が、この13曲に詰まっています。
まとめ
3週間の引きこもり、9日間の不眠、GarageBandとJuno-Gだけ——この制作環境が「制約」ではなく「解放」として機能したのが、このアルバムの逆説です。
音楽理論を知らなかったからこそ既存の文法に縛られず、作曲の「正解」を知らなかったからこそ誰も辿り着けなかった場所に着いた。「Oblivion」が今も鳴り続けているのは、そういう種類の誠実さが音に宿っているからだと思います。
その後Grimesは全く異なる場所へ進みました。でも『Visions』は、2010年代の「ベッドルーム・プロデューサーが世界を変えられる」という時代感覚を最も純粋に体現した1枚として、今も特別な位置にあります。
